無意識日記々

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歌と顔

中二病でも恋がしたい」ってアニメがじわじわと尻上がりに面白くなっている。最初は「(日本でも屈指の技術力を誇る)京都アニメーションの無駄遣い」という前評判だったし実際そういうくだらない設定から始まったのだが、逆に(というかなんというか)その分アニメーションで表現できる余白が多い。京アニの技術力が堪能できる作品になっている。地味な楽しみ方だけどね。

アニメーションの最大の利点は、概念を抽象化して視覚に訴える事が出来る点である。実写映画もCGを多用しているので区別はなくなってきているが。

その中でも、記号性が最も高いのは顔面の所作である。肉体は写実的でも顔面だけは眼球の占有面積が五割を超えるなど現実を無視した造作が見受けられる。これがイラストや漫画までなら純粋な記号として還元できるかもしれないが、アニメーションだと立体としての成り立ちを想定しなければならない。フィギュアだともっと辛い。これは、鉄腕アトムの角の正確な位置の特定に苦労した時代からの、つまりずっと続いている苦労である。

「歌」というのも、似た苦労を抱えているといえないだろうか。文字として紙に書いてある時点では純粋に記号として扱えるけれども話し言葉となると声のトーンや会話の間など、物質的な要素が入り込んで来、記号だけだった時の抽象性から一歩脱却する。これが「歌」ともなるとメロディーに乗り、他の楽器とのアンサンブルまで考慮しないといけなくなる。果たして、ただ紙の上に書いただけの歌詞が「歌」になってゆく時に、最初の記号的な抽象性はどこまで残っているだろうか。そこで踏ん張って表現を遂行するのは、顔面だけ高い抽象性を持つアニメ絵を動かすような苦労が伴うのではないか。そんな事を考えながらアニメを見ていた。

そこを一点突破する為にクマチャンの着ぐるみを着てしまったのがヒカルだ。ぬいぐるみという高い記号性の中に肉体を押し込んだ。荒業。故に純粋だった。のちにその記号性の塊であった顔面部分を脱ぎ捨てる所まで併せて考えると妙に感慨深くなるわ。