無意識日記々

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そこら辺

過去の作品で桜流しにいちばん近いのはBe My Lastだろう。もっといえば、映画「春の雪」によりフィットするのは桜流しの方であるとすら言える。タイトルの雰囲気や、ピアノの旋律を雪の舞い落ちる様子に喩えてもサマになる事や、大正時代の空気にそぐう重々しいストリングスや、和洋折衷の古くで新しい感覚など、まさにそのままである。

母と息子の物語を取り上げている事や、自立しきれない主人公の優男とそれを取り巻く女性たち、という構図は、春の雪にもEVAにも共通のものだ。更にその中で、Qの特徴は、自分の許容量を超える責務を与えられながら運命を受け入れて力を奮う、つまり持て余す力を自己化していく物語であった序破と対照的に、ひたすら主人公の無力感に焦点を当てている事だ。しかも、勇んで積極的に行動しようとすると悉く裏目に出る。行き着く果てはどん底の無力感である。春の雪では、Be My Lastで『何も掴めない手』と歌われているように、主人公は1人ではひたすら何もできない。序破のままでは春の雪の世界観をEVAと共鳴させるには材料が足りない感じがするが、Qに至る事でそれが可能になったようにも思える。少なくとも、音楽の作風が近いものになったという事は、ヒカルとしては、似ているとまではいかないまでも何か共通なものがあるとはいえるかもしれない。

前々から言われているように、エヴァンゲリオンとは純文学を現代に生きさせる為のギミックである。三島由紀夫原作の映画と共通項が出てきても不思議ではない。いや、三島を純文学と呼ぶかどうかは知らないが。桜流しの作風がそこら辺を突いてきたのは、EVAのそういったコアの部分、彼女曰わく"ダシ"の部分を、自らもしっかりと持っていて、表現できて、それを的確に選択したからだろう。試しに春の雪を見終わった後に桜流しを流してみるのもいいかもしれない。時間かかるな〜。