無意識日記々

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結論から言ってしまえば、桜流しは多くの点においてBeautiful Worldとは一線を画する作品となっている。

まず、まるで"pop"ではない。ジャンルとしては確かにJ-popに分類されているかもしれないが、それはただ、嘗てJ-pop歌手だった宇多田ヒカルが歌っているから、というだけの話に過ぎない。まるっきりの新人が桜流しを歌ったとして、それがPopsに分類されるかというと無理だろう。

いや勿論、J-popというタームに音楽性の傾向についての含意はない。何でもあり、である。しかし、その名の通り日本中(in Japan)の大衆(Populace)にに受け入れられたい望みが幾らか以上にはあるという点については共通していなければならない。桜流しはどうか? 私は聴き手を激しく選ぶと思う。少なくともこのメロディー運びと構成美はJ-popを聴き慣れた耳には親切とは言えまい。

問題は、新劇EVAの第3作という今やド・メジャーな作品に提供する楽曲なのに何故このような作風になったのか、という事だ。

ここをどう考察するか。直感に従って、ヒカルはEVAQの"親切でない"作風を少ない情報の中から確実に嗅ぎつけてシンクロニシティを獲得した、というのが私の今までの見立てだった。その推測を撤回する気はない(し、殊更強弁主張する気も又ない)のだが、思考実験として、「もしもEVAQが親切な作風であったなら」という仮定を置いてみるのも何か効果があるかもしれない。

前にも指摘したように、桜流しは、もしEVAQがなかったらそもそも制作にすら入らなかった作品である。この点については、Beautiful Worldよりも更にEVAに"魂を預けた"作品であるという事も出来る。Beautiful Worldは、非常に可能性の低い話だが、EVAがなくてもリリースされていただろう。単純に、宇多田ヒカルのPop Singerとしてのキャリアを考えた時に、07年の夏には結局新曲をリリースしていただろうからだ。勿論、Kiss & Cry単体でのリリースになっていた可能性だってあるけれど。

桜流しは違う。EVAQが制作されなかったなら、一切作られる動機がなかったといえる筈だ。人間活動中に"宇多田ヒカル"の看板を出して商業活動に従事するのは何とも居心地がよくない。ヒカル含め全員が"EVAだからこそ"というエクスキューズがあるから気持ちに整理がついたのである。EVAQなくして桜流しなし、No Evangelion, No Sakuranagashi.

しかし、とすると、ひとつ疑問が巻き起こる。何故ヒカルはこの曲にビデオクリップを用意したのか? Beautiful Worldには、正式なビデオが存在しない。二分足らず(だっけ?)のショートバージョンにEVAの動画をくっつけた、今回桜流しについても作られた映像があるだけだ。桜流しについても、それだけでよかった筈なのに、河瀬直美というビッグネームを起用してまでビデオを作った。極端に誇張していえば、この映像によって桜流しとEVAQの結び付きは弱まる。それは、EVAQなくして桜流しなし、という"素性"を欺く事にすらならないだろうか。この点について、次回また考察してみたい。