無意識日記々

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大きな看板の使い方

昨日は震災追悼モード一色だったように思う。それ自体については特に何もないのだが、一体どれ位の規模の震災からこうやって話題として取り上げて貰えるのだろうかな、とはふと考えた。311については全国規模で追悼する事に異論は少ないだろう。兵庫県南部地震もその範疇だ。しかし…と辿っていくと、どれ位から話題にのぼらなくなるのか。どんどんあやふや曖昧になっていくのだろうかな。

その昔、「うちの地震被害も○○大震災と呼んでくれ」と打ち出した自治体の長が居た。結局定着しなかったが、多分そこらへんが境界線になるのだろうな。

ヒカルが支援活動に熱心なのは周知の事だが、彼女の中にも同種の葛藤があるのではないかなと想像を膨らませずにはいられない。幾ら何でも毎回100万ドル規模の寄付行為を行える訳ではない。被害の多寡によって金額も変える筈だ。では、それが「ゼロ」になるラインみたいなものはあるのだろうか。

凄く下世話な話? まぁそうかな。年賀状を出す出さないの境界線みたいな話かもしれない。が、寄付行為というのは結構重い。ヒカルの場合だと、匿名にするか否か、また公表するか否かも悩みどころ。宇多田ヒカルの名で寄付を行ったとなると、金額の多寡よりその事実が相手方に感慨を与えるだろう。また、寄付行為を公表すればそれ自体が社会的関心を呼ぶ。それをきいて「では私も」と思った人は少なくない筈だし、何より「大変な事が起こっているんだな」という意識喚起にもなる。影響力は大きい。

これは、もう今現在の売上とか関係ない。知名度とマスメディアへのアピール度だ。そして、今のヒカルはそういったプレッシャーからも解放されて人間活動に勤しんでいる。逆にいえば、そういう影響力を行使したいと思う時があったら、その時にちょっと「戻りたいな」と感じたりするかもしれない。復帰へのモチベーションは、音楽的動機だけではなく、そういった側面もあるだろう。そう考えると、「社会情勢」なんていう捉えどころのない現象にも気を配っておいた方がよいのかもしれない。それが何を意味するのかは相変わらずわからないとはいえ。