無意識日記々

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"雰囲気"

問題なのは(と言えるのかどうかわからないが)何度も指摘してきた通り作曲家としての宇多田ヒカルの書く楽曲については、所謂"体系的な理解"というものが程遠い、という点だ。リスナーとしての態度と作曲家としての方向性は必ずしも一致するものではないが、だからといって逆に何の相関もないとするとヒカルの選曲をみる事で作曲家としての成長の証明を感じ取りたいというこちらの目論見は脆くも崩れ去る。まぁそれはそれで、なんだけど。

今週はこちらがひとりで力んでいるが、実際の番組はそう肩肘張ったものになる筈がない。タイトルが「Kuma Power Hour」だなんて、一言で言えば「脱力」である。寧ろInterFM全体から異端と呼ばれるような内容になる可能性の方が高い。

で、通常ならここで「ラジオ番組はリスナーとの相互作用で変化していくもの。放送が繰り返されるうちにフォーマットも固まっていくだろう」とコメントする所なのだが、これが困った事に月一1時間。相互作用なんて言ってるうちに時間が過ぎ去っていくのだから始末が悪い。

月一放送というのは存外少ない。一年間続けてもたったの12回だ。朝の連続テレビ小説なら二週間分である。いやその比較は無理があるけれど兎に角、何か企画的な事をやろうにも時間が足りない、スピード感が出ない。これは結構、むつかしい。

ありそうなのは、殆ど「報告」に近いスタイルだ。今私はロンドンに住んでいます、この間はこれこれこういうアーティストのコンサートを観てきました、この間は地元のショップでこんな…みたいな。現地レポートか。1時間番組だと、これだけで埋まってしまう。

月一1時間というのは、スペシャルであるような、そうでもないような微妙なペースである。ラジオ番組にとって「日常感」と「特別感」の差異は、テレビ番組以上に重要だ。何気なく流しておく、という聴取態度を相手にする以上、流れるような予定調和を形成する事が必要になってくるからだ。

「番組のペースを掴む」のが難しいなら、若干リスナーとの距離を置く感じで淡々と進行するのもひとつのテだが、果たしてそれが宇多田ヒカルに期待されるかというと違うだろう。あの挙動不審な親しみやすさのないラジオ番組なんて拍子抜けもいいところ。ヒカルを身近に感じられるからこそ価値がある。はてさて、一体どんな"雰囲気"になってくれますことやら…。