無意識日記々

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SAKURAと桜のサクラ観

春真っ盛り、って言い方するっけ。夏ならよく使うが。春ですねぇ。

今回、SAKURAドロップスに続いて桜流しという"春歌"を作曲発表したヒカルだが、SAKURAのように桜が毎年この季節にラジオから流れてくるかというと、うーん。

EVAQのイメージが強すぎる、というのもあるだろうがこの曲調ではなかなか麗らかな春の陽射しとはなりにくい。寧ろ3月11日に合わせてオンエアされる方がリアリティがあるか。何だかSAKURA"ドロップス"という響きが受験シーズンにはそぐわないし、この2曲自体は棲み分けをしそうな雰囲気はあるが、いずれにせよどちらの曲も散りゆく桜を愛おしむ曲であるから、それを桜の咲く季節に流して貰う事はやや背徳的であろうか。牛乳に豆乳混ぜるみたいな感じ。なんだそりゃ。

SAKURAドロップス当時のインタビューを読むと、彼女はそういった細かな反応まである程度予測した上でタイトルをつけているが、桜流しの場合はもっとシンプルでスマートに響く。ある意味、錯綜する推測の数々に彩られているEVAQ本編よりずっと潔い。エンディングでかかるんだからそれでよいんだけれども。

ただ、不思議な事にこの曲とタイトルが時々分離する事がある。私が何度も聴きすぎてゲシュタルト崩壊を起こしただけのようにも思うが、なんだろう、これは、具体的な"桜"の経験とこの歌が分離しているからかな、とも思ったり。

6年前の今日のメッセージで、自身の桜への思い入れのなさを語っているヒカルだが、こうしてSAKURAと桜の歌を作った事によって、その思い入れの質、有無も含めた色合いが年月とともに変化してきている、という事もあるかもしれないが、この妙な分離感は、やはりヒカルの中に桜という花がアイデンティティだとかコミュニティーへの帰属だとかいう概念と結びついていない事を示唆しているのかもしれない。桜の花が散る姿を愛でるのは、そういった"呪縛"から解き放たれる瞬間にこそ愛と美を感じるからか。それは言い過ぎにしても、余りにも象徴的に過ぎるこの日本の花に対して、ちょっぴり違った見方をし続けてきているのは間違いないだろう。