無意識日記々

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突如として北斗の拳用語出現(笑)

年々Hikaruの声がお母さん@藤圭子さんに似てきている、と言われて久しい。特に桜流しは情念の籠もった曲調なだけに余計に言われているような気がする。

その点については異論はないが、考えてみれば不思議なものだ。と言うのも、藤圭子という歌手は60年代終わりから70年代初めにかけて活躍した歌手であって、彼女が51年生まれだからつまり多くの人前で歌っていたのは10代後半から20代前半にかけてであり、大体の藤圭子の歌声のイメージとしてはこの年齢の頃の彼女のそれを指すものだろう。

しかし、今のUtada Hikaruはとっくにその年齢を追い越し、桜流しに至っては28歳の歌声という、藤圭子未踏の地にまで足を踏み入れている。その地点での歌声を指して「ますますお母さんに似てきた」と言われるのだから、何とも不思議な母娘である。

元々、この2人はその経歴まで酷似していると話題になってきた。10代でデビューし、"全"人未到のアルバム記録を樹立、若くして結婚と離婚、27,8歳で一旦引っ込む、という構図。このあとまた再出発すればそれめまた同じと言われるだろう。当人たちからすればただひたすら自分の人生を生きているだけなのだろうが、外からの野次馬目線ではどうしたって運命として眺めざるを得ないと言いたくなってしまう。

ただ、救いなのは、と言っていいのかどうかわからないが、娘の方が母に対して愛情と尊敬を全く惜しんでいない、という事実は我々野次馬を酷く安心させるに十分である。つまり、ここは慎重に言葉を選ばざるを得ないが、自らの足跡がたとえ母の後追いだとしても、それは嫌悪の対象にはなっていそうにない、という事だ。一言でいえば「母ちゃん好き好き」でありだからこその「ダウンロード違法化がなんぼのもんじゃい」なのだろう。

歌手としてのレベルの高さ故に、そのスタイルに関しても相似性が認められるからといって、何ら各自のオリジナリティが損なわれるものではない。寧ろ一子相伝(なぜ予測変換にこの単語があるんだ(笑))の奥義として畏怖を以て賞賛されるべき事態なのかもしれない。この、声質というレベルにおいでも、声が似てきているという声についてHikaruは、嬉しくはあっても忌むような話には全くならないだろう。憧れの歌手に少しでも近づけている、、、というよりも「ママといっしょでうれしい」という気持ちが、嗚呼、そこにはそっとあるのかもしれない。これ以上はデリケートだから、野次馬はそそくさと立ち去る事にしよう。