無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Distance Dilemma

「母の事で悩む必要がなくなった寂しさ」を、今光は感じているのだろうか。メディアからの取材攻勢なり追跡追尾張り込みなどに煩わされる事はあっても、もう母の状態について心配したり不安になったりする"必要"がもうない、というのはやはり普通に安堵感がある一方、そういう甲斐、みたいな、居てくれはるから味わえる面倒だとか厄介だとかが無くなってしまった寂しさみたいなものがあるかもしれない、とふと思った。いや、精神疾患というものは種類や程度によってはそれはそれは凄絶な状況を齎すもので、世話をしている家族さんが「早よ死ね」と思てしまうのもしゃあないわ、と納得させられてしまうレベルになる、と知識としては知ってるんですがね。(そう思ってしまった時の罪悪感に対するケアがいちばん厳しい…) 光の場合、宇多田家の場合はどうだったのか、確かに興味はあるのだけど、結局の所知ったとしてもそれは新しい知識に過ぎないし、わからないものはわからない。だから今後も詮索するつもりもない。する方法もないしな。何よ
り、2人が今でも純子さんの事を愛しているという事がわかればそれがファイナル・アンサーだし、それ以上の事は、まぁ2人がいつの日か話す気になってくれた時に「そうだったのか」と深い相槌を打つ事にしよう。

後は、今までの光の生活の中で、圭子さんに対してどれ位の時間を割いてきていたのか、くらいがわかればいい。近年そんなに会っていなかったのなら、これから生き方は変わるかもしれないが生活を根本から見直すという事にもならないし、こんな言い方は不適切だが、"大して影響はない"とも言える。病気に対する心労は無くなっただろうが、冒頭述べたようにそれが何とも言えない寂しさと入れ替わったというのなら、光の心の中で圭子さんが占める位置はそんなに変わらないし、もう会えないからこそ、心の中で大きく育つというのもありそうだ。

「父と息子」の場合、「子が親を乗り越える」というのは一つのイベントだが(腕相撲が勝てるようになった、とかね)、「母と娘」の場合は、何かそういうのがあるのだろうか。どちらかというと、いつの間にか友達感覚になれる、対等な立場で話が出来る、そういう感じになるのが母娘の私の中のイメージなんだが、光の中では母は、このままだと…嗚呼、だから「誰よりもかわいらしい人でした」って言ったんだな。それはつまり…

…やっぱここらへんで切らなくちゃならなくなる、か。難しいね、時期的にも、プロセスのステップとしても。