無意識日記々

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公共の福祉

沈黙は金、とはよく言ったもので、結局こういう時はずっと黙っていられるのがいちばんだ。メディアが次の話題に飛びつくまで何のネタも提供しなければ、そのうち忘れ去られていく。公共の福祉に関する事でなければ、何を言うも何を言わないも自由だろう。

公共の福祉、という点で考えられるのは、日本全国に居る精神疾患の家族を抱えた皆さんに対する認知度等への影響だろうか。2002年の時、ヒカルの病名の公表によって、同じ病気似た症状に悩む人たちと彼らに対する関心がメディアで取り上げられるようになる、という社会的影響もあった。暫くは「あの宇多田ヒカルさんもこの病気で手術した」なんていうフレーズが散見された。ちょっとビッグネーム過ぎるのだ、ヒカルは。

「自殺で家族を失った人々」に対する関心もまた同様だろう。しかし、これらのケースはその状況自体を周囲にあまりアピールしない事も多い。暫くして空気が落ち着いても、なかなか11年前のようにはいかない。キーとなるのは結局、ヒカル自身がこの件に関して積極的に発言するかどうかにかかってくる。彼女の知名度を"利用"すれば、種々の問題に対する認知と理解がある程度は広がる事が期待される。多分、それ以上のスピードと規模で、誤解と偏見の方が広がるんだろうけれど、これは地道に淡々と進むしか道はない。


今回の件で特徴的なのは、ヒカルと照實さんの間で若干のテンションの違いが見受けられる事だ。ヒカルの方はハッキリと『精神の病』『母の病気』と表現しているが、照實さんの方は「心を病んでいるというよりも」と若干踏み込まないニュアンスで表現している。ここらへんが、この問題の難しさだ。つまり、そもそも問題設定自体が難しいのである。何が問題で何を解決すればいいか、というコンセンサスがなかなかとれないから対処が不十分になる、という側面がある。宇多田家がそうであったかどうかはわからないが、そういった認識の違いは世代の差かもわからないし、受けてきた教育の違いかもわからないし、男女の差かもわからないし、配偶者と子の違いかもわからない。まぁ、身も蓋もない事を言ってしまえばもう終わった事なので、今から言っても仕方がない。

仕方がなくない、とすれば先述のようにヒカルがこういった件に関して積極的に発信していった場合だ。それを今この時期に考えるのは不毛だが、ある意味そこで前に進む意義みたいなものを感じられるかもしれない。公共の福祉とは、結果として自分への力にもなるかもしれないものなのだから。とはいえ、今の取材報道体制では難しいかもしれないな。