無意識日記々

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できたてで

前回のエントリーを要約すると、「ヒカルの新曲は毎回進撃の巨人第1話みたいなもので、全部出オチ。」という感じになるか。完成度が高い、というと違うかもしれないが、ほぼ総ての楽曲を煮詰めきってから発表する為、なんていうのかな、こちらは「成長を見守る楽しみ」みたいなもんがない。いやこれも不思議な感触で、振り返ってみたら歌唱であったり編曲であったり、着実に成長の"跡"はみられるのだが、それは常に「後から振り返った時」にしか現れない。出来たてで大人…なんだろう、そんな感じ。

こどもの成長を見守るというのは、そういうことではない。あれが出来ない、これも拙い、という中で失敗を繰り返しながらあれが出来るようになった、これが上手になった、という風なプロセスを経るものだ。15歳16歳にして会社のいちばんの稼ぎ頭になってた人には、そういう時間がなかった…

…という風に書くと、お馴染み「人間活動の意義」みたいな話になりそうなのだが、いや、それはまぁそれで有りなんだけど、何か違う。育てる楽しみ、育つのを見守る楽しみ、がない一方、では我々が彼女を親や先生のように敬って、大いなる信頼を寄せている…というのとも違う。前回触れたように、彼女に寄せる感情は常に期待より不安と心配の方が大きい。

結果だけみると、明らかに誰よりも頼もしい。ここまで結果を出し続けられている人は、特に作曲面においては、右に出る人は居ないだろう。クォリティーの面では安定感抜群である。なのに、いつも我々は彼女の事を心配している。どーんと構えて待っている、という事がない。何の不安もなく「宇多田は大丈夫」と信頼しきっている人は、大抵活動休止中は彼女の事を忘れているタイプなんじゃないか。それはそれでいい事だが。

単なる考え過ぎ、という面も勿論ある。しかし、どちらかといえば「そんなにいつも心配心配ばかり言いやがって少しはヒカルの事信頼しろよ」と普段言ってる方の私がこうやって毎度書いていて「やっぱり期待の方はひねり出すように出してるなぁ…心配は呼吸のついでにできる」なんて風に感じるのは、ちと尋常ではない。ならば、と、その原因の答を探そうとしそうなものだが、不思議な躊躇いがそこにはある。なんだかまだまだこのテーマから離れられそうにない。