無意識日記々

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自由

前回の最後に触れた部分は重要である。最良の結末と最悪の結末は同じ貌を持っている、或いは同じ貌の右と左の横顔かもしれない。白と黒の双子。この陰陽の回転が世界なのだともいえる。

私は原作ゲームをプレイしていないが、TVアニメ「シュタインズ・ゲート」(2011)は傑作であった。観てない人は何の事かわからないだろうが、あの作品の傑作たる所以はその結末の導き方に極まる。「運命に抗わずに結末を変えてみせる」というその発想は、運命と物語についての本質を見事に突いている。

光が運命というものをどう捉えているか。ちょうど10年前に発売された「Single Collection Vol.1」のジャケットに、その一端が記されている。そこには、自らの書いた歌詞が自己予言であった事を後から告げられる様が描かれている。10年経った今、光の哲学が、このイシューに関して当時からどう変化しているかは私ですら、もしかしたら光にとってすら定かではないが、少なくとも光は「どれだけ抗おうともいつの間にか運命に搦め捕れていく恐怖」を、誰よりもよく知っている筈である。抗えるものではないのだ。

光は日本一の作詞作曲家である。このレベルになると、曲は「あるべき姿にしかなり得ない」事を日々痛感しているに相違ない。音楽は自分の自由に出来るのではない。逆である。音楽をあるべき姿に現出させる事が出来て初めて、そこで漸くその曲の分だけ「私」は自由になれる。私は私と共にある。何にも抗い難い。

光の作曲能力を考えると、それは「呪われている」というレベルではないか。翻弄。その言葉がぴったりである。望みを叶える事で曲が出来、願いを裏切られる事でまた曲が出来る。どちらにも転ぶのだし、次にどうなるかはわからない。しかし兎も角、我々はその「あるべき姿」を何とかして見いだすしかない。自由はその先にしか無いのだから。

この、強いられる運命に対処する為の処方もまた、SCv1の表紙詩に記されている。それは"Home." 光の居るべき場所、帰る場所だ。嵐の女神やテイク5もそうだが、"家に帰る"というモチーフは、音楽にとって最も根源的なテーマである。例えば、ドヴォルザークの"新世界より"の第二楽章といえば「家路」だが、日本では最も有名なクラシックの旋律のひとつだろう。

これが普遍的なモチーフたりえる理由は幾つか考えられるかもしれないが、ひとつには、今述べたように音楽を創造する過程の体験が、家に帰る感覚と同期するからだろう。あるべき場所に行き着くべく、人は曲を詞を書くのである。時には、予めにはそこがどこかはわからない、辿り着いてみて初めてそこがそうであったと知れるのかもしれない。しかしひとまず、辿り着いてみないと話にならない。

今回のポイントは、つまり、その「向こう側の自由」の性格を知る事だ。そこを乗り越えたからといって、それこそ"我々の思い通りに"楽曲を新しく創造出来る訳ではない。あるべき姿は変わらない。しかし、それがカタチを得た事で、我々はその"外側"に広がる世界の存在を知る事が出来る。運命の交差点・鞍部点は、そこに姿を現す。我々は踵をi_の字に返して、ただ新しく出来た向き("外側"に広がった世界!)に足を踏み出すだけでいい。そうして、運命に抗う事なく、結末を変える事が出来る。その名こそが自由である。我々にとって、それこそがあの"望ましい死"となるだろう。


…となると、次回は「愛とは何か」について書かなくてはいけなくなるが…「熊淡8まであと一週間!」を早く書きたいので、どうなるかは(私も含めて)お楽しみという事で一つどうでしょうか。ほんに今回は何書いたんだ自分…呆れてるぜ。