無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

まだまだ先は、わからない。

愛する人を誰かに殺された時、その誰かを恨み憎み、果てはその誰かの死を願うのは、ある程度自然な事だと思う。この国に死刑制度がずっとあるから私がそう思うのか、そう思う人が多い土壌だから先進国群のトレンドに逆らって死刑制度が存続しているのか、鶏と卵で定かではないが、凶悪犯の死罪を望む声が大きいのは事実だろう。声が大きいからといって多数派とは限らない、というのはWebフレンドリーな人は実感としてあるのだけれど。

当人はそれで仕方ないが、周りがそれに乗じるのはよくない。言ってる貴方の家族が被害に遭った訳でもないのに、感情を増幅させる方向になってはいけない。それは、悲しい事なのだから。経緯はどうあれ、相手が如何に価値を見いだせない存在であるとしても、誰かが誰かの死を願うというのは、余りにも切なく、悲しい。自分がそうなって、殆ど正気を保てなくなっても、その僅かばかり残った正気は、慟哭に塗れると思う。こんな筈じゃなかった、こんな思いなんて持ちたくなかった、何故自分は人の死を願うような人間になってしまったのか、と。

だから愛する人を人生の途中で喪うのはいけない。誰かに殺させるのは最悪の事態である。どちらにどう転んでも、悪い方にしか話は進まない。誰が悪い、というのではなく、それに巻き込まれる事、そのエピソードの一員になった時点で、存在自体が黒に染まる。悲しさしか、残らない。

しかし、この想像上の慟哭を、見失ってはならない。ただ人を怨み憎むだけしかない人間には、この悲しみがない。義憤にかられ、声高に争いを煽る人には、確かに正義はあるかもしれない。そこを見ても仕方がない。その人が、心根で泣いているかどうか、それを見つけられるまでは、引きずられないようにしよう。見つけた後は、遠慮なく引っ張ってあげよう。

喪った人は戻ってこない。そんなに大切なら、生きてるうちに守り抜かなくては。



と書いてる私にはそんな経験がない。これから生きてる間にそんな経験をする気もない。周りが皆長寿だから、天寿を全うして静かに安らかに人生を終える「何にもなさ」なら、よく知っている。長生きっていいもんだよ。「こんだけ生きたんやから、まぁええんちゃうか。」―人生の最良の幕引きはこんな感じだ。何だか、人の死を願っているのとそっくりだが、本当にまるで違う。最良の事態と最悪の事態は瓜二つで、隣同士だ。ちゃんとよい方に進めるかどうかは、常に危うい。まだまだ先は、わからない。