無意識日記々

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動物愛護の精神と熊崇拝その2

なんだこの暑さは。朝から昼だ。

今回のシリーズは、いつもの、「何を考えててもヒカルの話になってしまう」流れとは逆の、「ヒカルの話をダシにして自分の考えを述べる」流れになっている。その為全体的に些か胡散臭い。自覚はあるのであしからずで。


動物愛護というとかなり広範な対象が思い浮かぶが、ヒカルの場合は今のところ熊限定である。どこまでリアリスティックな判断が為されているのか測り難いが、少なくとも熊だけでも大変である事は間違いない。

動物愛護への反論…というとおおざっぱに過ぎるな、例えば報道されている中では日本がイルカやクジラを食糧としている事に関して諸国から非難が出ている件を上げてみようか。

それに関する日本側(?)からの返答として「では貴方がたが食べている牛や豚はどうなんだ」という反論が散見される。同じ動物なのにイルカやクジラを牛や豚と異なる扱いをするのは正当性に欠けるではないか、という論旨だろう。

これはイルカやクジラも牛や豚と同等に扱え、或いは、少なくとも我々はそうしている、という事だ。そう言っている人が言ってるそばから同じ人間を人種や国籍や性別や職業で激しく差別しているのだから論理的な整合性や説得力に欠けるのだが、ひとつの態度として、イルカやクジラや牛や豚はどれも等しく生命なのだから平等に扱おう、という思想は検討の価値がある。

ただ、実地の問題を解決していくにあたっては、当然ながら個々のケースを吟味せねばならず、また、どの活動に従事するかの選択をしている時点で、そこに選好、或いは偏向があるといっても差し支えないし、仕方がないし、またそうあるべきだろう。現実の活動とはそういうものだ。ただスローガンを掲げているだけでは、殆ど何も始まらない。

しかし、実地の活動において、その全体を貫く思想や哲学は、個々の諸問題を解決する際に影響を及ぼす。

熊の問題にしてもそうである。人と熊の間のイザコザを解決する為に、山の生態系を崩す行為が不可欠になる―即ち、他の動物たちの生命が脅かされる事態になった時にどんな判断をするか。そういった所で違いが出てくる。勿論、そういった事態に陥らないで済むならそれはそれでよく、問題は起こらない。

そういった、想定内の、或いは想定外の事態に見舞われた時にヒカルはどのような思想で対応するのか。それこそ、「その時になってみないとわからないんだから今考えても仕方がない」のだが、我々傍観者は個々の実地の活動内容はわからないしタッチしていない。何らかの意見を表明できるとすれば、活動全体を貫く思想と哲学に共感するか否かについて、といったレベルの話になるだろう。

であるからして、ヒカルが現実の熊に執心する時、それが動物愛護の精神に則るものなのか熊固有のものなのか、動物といってもどの範囲なのか、といった種々の疑問に対して何らかの表明をしてくれれば、こちらも応援するなり何なりといった態度をとれる。今のままでは、「くま………熊っ!?」といった感じで唐突感は否めない。

もっとも、これが人間活動の一環であるというのなら、そもそもそれに携わっているか否かを表明する必要もないし、黙って遂行していてくれればいい。それなら気の済むようにやってほしい、という思いである。今後こういった話に対する言及があるかどうかに注目である。