無意識日記々

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動物愛護の精神と熊崇拝その3

笹井センター長の自殺はショッキングだったなぁ。どうやったら止められたのだろうか。誰かが自殺した時、それは残された我々全員による失敗を意味する。誰かを責めても今更仕方がない。その人の人生はもう二度と戻ってこない。…言うてる間に蘇生してくれてたりせん? 誤報でしたとか未遂に終わりましたとか。無いか。そうか。

出来ればこれを教訓にして次への対処がほんのちょっとでも上手になれればよいのだが、二度自殺に成功した人は居ないので、何が本当に参考になるのやら。わかんないな。出来る事をやるしかない。


さて、一方で、そのニュースが流れていたのと同じくらいの時間帯にヒカルからのツイート―いや、リツイートがあった。ガラケーの私は動画をまだ見れてないのでどこがツボなのかはまだよくわからないんだが、クマがカラスを助ける話なのだろうか。だとしたらやりづれぇなこの連載(笑)。でもま、ぼくはくまと共にKremlin Duskという事だから(あの歌の原案はポーの"The Raven"だ諸君)、一応Hikaruの歌と関連していると捉えておこうか。

Hikaruは、ポーと同じ誕生日なだけあって、その文学的な匂いには何か共鳴するものがある、かもしれない。ポーがまるで守神のように見守ってくれていればいいんだが。特に、歌詞の題材にした上に、未だに意味のわからない"クレムリンの黄昏"というタイトル。ポーと旧ソ連関係なかろうに。私が生きてるうちにこの謎は解かれ得るのか。

話が逸れてら。動物の話だ。動画を見ていないから取り敢えず今回はこのまま行こう。


動物愛護、動物を愛して護る、という表現はどうなのだろう。私は、それについてはよくわからない。彼らには彼らの生き方があるのだし、放っておいたら種が絶滅するのは、地球の歴史上においては"いつものこと"なのだから、それはもうあるがままにするしかない―と、思う一方、勿論ヒトが増え過ぎてからの種の絶滅ペースは異常である。"いつものこと"なのは何万年何億年単位の事だ。高々数百年でこれは酷い。

という訳で「やりすぎんな」と歯止めをかけるのは必要だろう。それが人間の福祉に本当に貢献するかどうかはわからないが、ただやりすぎないだけなら、あんまり弊害は生じない。一方、一度途絶えた種は戻らない。その遺伝子から人類が大きな利益を得られるかもわからない。天然痘に対抗する為にはまず牛の協力が必要だった。牛を先に絶滅させていたらどうなっただろうか。種を、出来る限りにおいて存続させるのは、余程余裕が無くなってしまわない限り、ただの思想としてのみならず、有用ですらあるという自覚は敷衍して然るべき。勿論、全く余裕の無い状態でも護りたい人は頑張れ。

もっと素朴、かもしれない、人が動物愛護の精神に感化されるのは、動物が殺される場面を見て「なんて無残な」「あんな事は許されない」と思って足を踏み入れる。それは容易に想像できる。さてそこからなのである。

ペットを飼っている人(飼っていた人もな)は、彼らが人間でなくとも家族の一員である事に何らの疑いを持たない事もあるだろう。亡くなれば哀悼の意を示し、葬儀と埋葬を行う。何が許されるかは各自治体にちゃんと問い合わせしなきゃならんが。それは、余りに自然なので動物愛護などと言うまでもないのだが、広い意味ではそうだろう。他は兎も角、目の前に生きている(生きていた)生命に食糧を与え病院に連れて行き部屋の温度を管理する。立派に動物を愛して護っている。何の間違いもない。

考えるべきなのは、その愛情が個に向かっているか概念に向かっているかなのだ。ペット云々という時、それは家族であるのだから同じ種の同じ年齢の個体を連れてきてもそれは"別人"である。「冗談じゃない」、だ。

一方で、一般的に「動物愛護」云々を言う時、彼らはまず概念を相手にする。イルカは賢い動物だから食べちゃあいけない、と主張している時に彼らは、本当にアタマの切れるジョージや、聡く振る舞うアリッサや、ちょっとボーっとしているアレキサンドロスの事を考えている訳ではない。彼らは、ジョージは賢いから殺しちゃダメ、アレキサンドロスは愚鈍だから殺しちゃえ、とは言わない。"イルカ"という概念、或いは集合を護ろうとしている。ここが違う。

それに反発する方も同じである。「イルカはダメでウシならいいのか」と言う人はバッファローの健太朗やホルスタインのアランチャの事なんて考えてない。イルカという概念にウシという概念で返しているだけだ。

個と種。この違いを頭に入れて、話を次回へと続けるとしよう。