無意識日記々

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動物愛護の精神と熊崇拝その4?

取り敢えずその前に、私個人の動物愛護に対する考え方を記しておく。そんなん必要あるんかいなと本気で訝しんだがそういやこれ俺の日記だった。寧ろそういう事書くのが普通か。

私の場合、人間だから動物だからという区別は元より無い。大体、境界線がわからない。ヒトじゃなかったら類人猿はどうなのか、哺乳類ならいいのか、脊椎動物ならどうなのか、動物なら植物なら真核生物か原核生物か、いや、生物か無生物か、ロボットなのか天然物なのか、実在か非実在か、いるかいないか、生きているか死んでいるか、幽霊はどうなんだ、それらは基本的には、もともと関係ない。

基準はひとつ。その相手と対話可能かどうかだ。話が通じるか。通常の文字言語や音声言語に拘る必要もない。身振り手振りでも目配せでも、何だったらテレパシーでもよい。何らかの意志疎通が成立するかどうかがポイントだ。

山で熊に会った時。そもそも私山に登らないけどな。会った時に、彼女/彼がどう振る舞うか。襲ってきたら敵だから逃げるかベギラマでも唱えるかするだろう。食べ物を持ってきてくれたら「有難う」と頂戴するだろう。襲おうとしてきた時に、「待った!危害を加える気は全く無い」というこちらの意志が通じてくれるかどうか。その一点に尽きる。熊と言ったがこれが人間でも蜂でも結局は同じだ。

しかし、勿論、経験からして人間なら話の通じる可能性が非常に高いし、熊はよくわからないし、蜂には確実に通じないだろう。宇宙人だったらどうかな。ますますわかんないね。

当たり前の事を言っているだけなのだが、人はいつもいつしかこの当たり前を忘れて、対象をカテゴリーに当てはめて考えるようになる。優性学的思想に基づいて、あの人種だからあの民族だからと言うようになる。

その相手が対話可能かを知る為には、その属性は大変重要で参考になる情報だ。相手がヒトかハチかがわかるかわからないかは生命に関わる。まずはそこから知ろうと考えるのは悪い事ではないどころか必須である。

しかし、そこで止まってしまう。すると、それは集団というか、概念の相手をするのと同じになる。私はそうしない。文字の上ではそういった包括的な議論をするかもしれないが、必ず現実の対象を絞る方向に誘導するように努めている。だから、一般人とか世間とか書いた時に必ずと言っていいほど、どういう意味なんだとか余計な括弧書きがついている。

なので、動物愛護も何もない。犬だろうが猫だろうがマーモセットだろうが、そいつをペットとして何年も共に過ごしたのなら思い入れもあるし、死んだら悲しむ。その悲しみは、毎日の新聞でお悔やみ欄を斜め読みした時の感情より遥かに大きいだろう。その意味に於いては、私は人間よりペットの方を大事にしているとも言える。よく考えたら至って"普通"な事だ。

しかし、幾ら"普通"だからといってこの考え方が社会全体を表立って覆ってしまったら社会生活は破綻するだろう。建て前では必ず、人間を重視しなければ、カテゴリーを重視しなければならない。なので、こういう考え方を大っぴらに言うのは本来憚るべきなのだ。しかし、本来の本音はここにある、という事を自分自身で自覚しておかないと、私としては話がどんどんおかしな方向に進んでいくだろう、と考えざるを得ない。基本中の基本。そこを踏まえた上で次回は本筋に戻るとするか。