熊崇拝という言葉でヒカルが指しているのは熊全体である。ぬいぐるみのKuma Chang以外で、ヒカルが具体的な熊について語った事はない。平たく言えば、どの熊の名前も呼んだ事が無い。これは、彼女にとって"異常事態"かもしれない。
宇多田ヒカルとUtadaを貫いたコンセプトといえば"ノー・ジャンル"だ。生み出したどの曲も、何かのカテゴリーにとらわれてジャンル分けされる事をよしとしない。ただひたすら"あなたとわたしのあいだのはしわたし"として「歌」があった。つまり、どの歌も本当に大切で、一曲々々それぞれがそれそのものとして捉えられてきた。その態度が、15年間でボツ曲僅か一曲という結果に結びついたのである。カテゴリーにとらわれていたら、優劣がつけられ、捨て曲が生まれるだろう。ヒカルはそうはしなかった。これはとても驚異的な事である。
だから私は「じゃあオリジナル・アルバムなんて意味ないんじゃね? 常に一曲ずつシングルとして発表して、アルバムはこれから全部シングル・コレクションにすればよい」なんて提案もしてみた訳である。そこまでいつも丹念に作っているのなら、味わう我々も一曲々々じっくりといかせて欲しい、そういう意味だった。楽曲をアルバムという単位で捉えると、どうしても優劣と捨て曲が出てきてしまう。そこを逆手にとってアルバムという作品を作り上げていく作業とその結果もまた私の大好物なのだが、取り敢えずヒカルはそういう感じじゃあない。
それは、ファンに対するアティテュードも同様である。彼女は、一人々々の目を見る。ファンクラブを作らないのには様々な理由があるだろうが、ヒカルはリスナーを「ファン」と「ファンじゃない人」にカテゴライズするのが何となくそぐわないのではないか。一人々々が一曲々々を一期一会で味わう。そういうスタイルでやってきたし、それはこれからも変わらないだろう。
このように、人に対しても曲に対しても必ず具体的な対象から出発し、夢を見て、愛を語り、そしてまた「あなたとわたし」に戻ってくる、そんな哲学をもった人がこと「熊」に関しては思いっ切り抽象概念を持ち出してきた。熊が抽象概念だなんてどういう意味だ、熊は実在してるじゃないかと言われそうだが、それは錯覚である。確かに、日常会話でも「動物園に熊が居た」という風に言うから、それでいい気がするんだけども、本当にそこに居たのはゴンザレスだったりフランシスだったりナタリーだったりといった個々の個体である。「熊」とは、そのゴンザレスやフランシスやナタリーやらみんなみんなの仲間総ての集合であり、それは極端な抽象概念である。「あそこに人が居たよ!」とは確かに言うが、居たのは太郎か次郎か三郎かであり、世の中に「人」という人は存在しない。ありていにいえば、固有名詞以外は総て抽象概念だ。
「熊」。ヒカルはこれにこだわっている。なぜか。簡単な方の答はあっさりしている。肝心の最初の「個」であるKuma Changが抽象概念だからだ。確かに、ぬいぐるみとしてのKuma Changはそこに腹いっぱいの綿を抱えて実在していて、それは抽象概念じゃあない。Kuma Changは固有名詞だ。しかし、彼は本当は喋らないし考えもしない。我々が彼をくまちゃんくまちゃんと呼んで初めてそこに生きる。意味を持つ。ある意味「本」のようなものだといえる。本はそれだけでは何もしない。あなたや私がそれを読んで初めてそこに世界が広がる。広がり始めた本の世界は驚異的だし、我々は熱く熱くそれについて語る。シャーロキアンはベーカー街にシャーロック・ホームズが生きていたと主張するし、力石徹は葬式で送られた。両者とも本の世界の住人だ。Kuma Changはそれに近い。しかし、同じではない。重さがある。肌触りがある。抱きしめたらそこに居るのだ。ここが重要である。
ここらへん、どんどん難しいややこしい話になっていくな。デリケートでもあるし。熊の抽象性とKuma Changの抽象性の違い。ここらへんをもう一度整理しながら次回話を進めるかな。…進むかどうかはわからんが。