無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ローマは1日にしてならずと云う愚痴

こうやって「新情報が出そうで出なかった」というのが繰り返されていくと、正直疲れる(笑)。いや、勿論向こうは何も言ってきてないので完全にこちらの一人相撲なので(それでも(ヒ)はないよなぁ…(←まだ根にもってる))向こうに何の罪もないのだが、何故疲れるかというと本当に何かあった時にとても全部追い切れないからなのだ。待ち疲れているというよりは、いざとなった時にきっと何も出来ないだろうなぁという徒労感の先取り。それなんだな。

私としては、ひとつひとつの新しいマテリアルをじっくり味わい消化しながら前に進んでいきたいのだが、なんだか普段は全くの飢餓状態で、突然満漢全席期間がやってきて食べ切れず、そしてまた長い飢餓状態へと遷移するという"明らかに不健康な"パターンを繰り返している気がする。どうにも、私の性格なのだろう、少しのハレの日とたくさんのケの日という組み合わせより、ずっとボチボチな日々が続いていく方が好きらしい。皆はどうなんだろうかな。

「どの1秒も同じ1秒」という哲学が多分そこにある。私がイチローを好んできたのも、毎日々々一本ずつ(いやそりゃ猛打賞の日もあるけれど)ヒットを積み重ねてきたからだ。千代の富士が通算1000勝を記録した時に「次の目標は?」と訊かれてすぐさま返した一言が好きだ。「1001勝だね」。何事も一歩々々、一足飛びにはいかない、と思いたいといいますか。この無意識日記のスタイルをみれば瞭然かとは思うけど。

「アップダウンの激しい生活はヒカルの心身を疲弊させるのではないか」と体調を気遣うフリも出来るけど、この点に関しては単なる私の趣味、私のワガママである。生きる事とはただ一秒々々が過ぎていく事であって、今度お祭りがあるから今苦しくても頑張ろう、みたいな考え方をあんまりしない。今日食べたものが美味しかった。新しく聴いた歌がよかった。大体そんな感じである。

勿論、一枚の絵に何年もかけるような人生もあっていい。しかし、そこで私が気になるのはその絵描きさんが入れる一筆々々であり、そこに紡がれるさりげない日常の物語だ。一筆々々で、落ち込んだり怒ったり気分がよくなったり悪くなったり投げ出しそうになったり踏みとどまったりと、全く一様に流れる一秒々々にもドラマがある。その全体として一枚の絵が完成するから感動的なのだ…そんな風に捉える。

ただ、プロフェッショナルがそのプロセスを見せるべきかというと別の話だ。作りかけの曲を他人に途中で聴かせるなんて事はしてはならない。私の言いたい事はそうではなくて、出来たものにはヒカルの日常が一秒々々織り込まれているのだから、それをゆっくりと一秒々々紐解いていく時間とココロノヨユウが欲しいという話なのだ。

確かに、マニアックな視点かもしれない。それに、今はその時である。せっかくアーティスト活動休止期間なんだから過去の活動をよくよく振り返っていればいいじゃないか…って、実は毎日やっている。どんだけクイズの為に各種資料振り返ってるんだか。過去の名曲を聴き返しているか。私ほどヒカルの"過去"を毎日振り返ってる人居ないんじゃないのと言いたくなるくらい。そんなことないか。

それでも、それは本当に"今ここ"で語りたい事じゃない。私がここで語りたいのは勿論"今のヒカル"についてなんだ。もうただそれだけだ。過去の名作曲家の研究者じゃないんだ俺は。現実に同じ時を過ごしている同じ時代の人の話をしているの。

だから、突然いちどきに大量の情報がやってくると溜め息が出るのだ。たくさんありすぎてどれがどれだかわからなくなったら、途端に"今のヒカル"を見失うから。いうなれば、本当なら一秒あたり一人のヒカルが居る筈なのに、普段は一秒あたりゼロ人で、活動が始まったら一秒あたり5人も10人もヒカルが居て何が何だかわからなくなる。それがもう何というか戸惑うのである。

スタイルとして、宇多田ヒカルの活動と活躍が"ハレの日"だというのはわかる。わかるけれど、兎に角ひたすら勿体無い。勿体ぶらずに、淡々と活動してくれると有り難いんだが、まぁそうもいかないんだろうなぁ。しゃあないか。