「手」の心象は、ULTRA BLUEにおいて幾つかの歌でその姿を見る事が出来る。
This Is Loveにおいてはデジカメを支える「手」、Making Loveにおいては困った時に貸す「手」があるが、やはりいちばん目立つのはBe My Lastにおける「手」だろう。
『何も繋げない手』
『君の手つないだ時だって...』
『何も掴めない手』
『私の手で be my last...』
その上、二番のコーラスは『With my hands...』である。英語にまで手。徹底している。
「手」とは手段や方法である。「一手先を読む」「その手には乗らないよ」、手柄、手筈、手紙、、、いずれも、AとBの間を取り持つCの役割を果たす。いや、役割そのものでもある。歌手、助手、運転手、、、。
Be My Lastでは、2人が手をつないでさえも『何も繋げない手』と言い切る。小説や映画での清顕の性格を知らないとピンと来ないかもしれないが、御曹司で、プライドが高く、しかし自らが力=物事を動かす手段、手を持たない春の雪の主人公がモデルになっているのは間違いがない。
『君の手つないだ時』というのは実際に2人が手をつないだ事であると共に、運命共同体形成の合図でもある筈なのだが、そこから何らかの変化・動きに繋げられない事を前段の『何も繋げない手』で表現している。
二番の『何も掴めない手』の手もまた、少し違う意味で使われている。これは『手中に収める』という時の手で、所有や獲得の概念だ。"手に入れる"の手ね。何も手段がない事を嘆く一番と、何も獲得できない事を嘆く二番は、この『手』によって繋げて表現している。同じ言葉で次々に異なる内容を語っていくこのシンプルな美しさがBe My Lastの真骨頂だ。
そして、二番のコーラスでその手段は極まる。
『With my hands... 私の手で be my last...』
英語部分もつまり「私の手で」という意味で、重ねて強調している。一番で『どうか君が』と祈り・願いを捧げていたのに、ここでは積極的に自らの意志で動く決意をしている。繋げず、掴めず、その『手』の不甲斐なさに最後に用いる手、それが何なのか、そして、私の最後の何になって欲しいと願っているのか、この歌では明らかにされておらず、『...』の部分は、聴き手の解釈に委ねられている。語り手としての私も、ここで話を区切るのがいい手かもしれません。