無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

はいはい(苦笑い)

さてどこで読んだものか都合良くも忘れてしまったが、もしかしたら誰かが内緒で試聴会の話をしてくれてたんだったかもしれないな(と誤用確信犯的にしらばっくれている可能性もなくはない)、ヒカルの一言がとても印象的だったので書き留めておきたいと思う。曰く。カバーアルバムの感想を訊かれてこう答えたという。

『出掛ける前に人にこどもを預けて帰ってきたらこどもがその人に懐いてた。』

だそうな。ザ☆言い得て妙。お見事。

照實さんが来年制作時期の相談をするとかしないとかツイートするより、よっぽどこちらの方が「あぁ、ヒカルが帰ってくるんだな。」という実感がしてくる。なんか久々なんだよ、ヒカルがこういう風に「うまいこと言う」のが。

私にとってヒカルの知性はヒカルの魅力の第一義ではない。それよりも、ずっと"そこに居る"小さい頃からの'心の優しいひかるちゃん'の方がずっと大事だ。しかし、光が宇多田ヒカルとしてそこに居続ける為には知性は必要不可欠な要素だ。それがあるから彼女はそこに居る、と言っても言い過ぎじゃあない。

その知性の端緒は…最もそれが感じられるのはやはり楽曲の作詞だろうか。桜流しの歌詞の構成を可能にした知性の漲りは私に至極な満足を与えてくれた。それが至上だが、過去はメッセージの節々に描かれたことばのきらめきが知性の代弁者として我々の前に現れてくれた事が何度もあったのだ。

日常の中でヒカルの知性に触れる瞬間。これが"甲斐"というものであろうか。ヒカルが復帰するというニュースがいつか流れた時、それはもうはちきれんばかりの期待感で気持ちが膨れ上がるだろうが、まだ実感には乏しいだろう。それが、こうやってウィットに富んだ一言に触れる事で、嗚呼、同じ時間を生きているんだと実感できる。これは、何ものにも代え難い。

冒頭の引用はたぶん伝聞の伝聞くらいなので、私に正確に伝わっていないかもしれないし、私も誤解しているかもしれない、そうなってくると、実はヒカルはそんなことは言っていないかもしれないという不安を喚起する事もまた容易ではある。が、私はその種の不安に苛まれる事はない。慣れというのもあるかもしれないが、これはヒカルでないと言えないな、という気持ちが自然と生まれてきたのである。それが私にとっての"証拠"であって、誰を説得するでもなく、私自身を説得するでもない。ただ、そう思えた事自体が嬉しい。そういう意味では、私にとって宇多田ヒカルは相変わらず概念なんだなぁという古い感慨が頭にもたげてくる。それはそれでそれなりに幸せなのだ。いいことかどうかはわかんないけれど。

宇多田ヒカルがただの概念でなくなる日は来るのであろうか。多分それは、実際に彼女と目が合った瞬間だろうな。それ以降彼女は私にとって概念以上の存在になる。いや、"以下"かもしれないが、取り敢えず今までの人生の中でそんな経験は無いのだった。文字の目同士なら、多分何回もあるけれど。ツイートでリプライ貰った事もあるし…そういうのを、"概念"と呼んでいるのですけどね。