無意識日記々

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日々変わる風向きの色合い

集中力とは対話の密度であるから、Pop Musicへの集中力は市場の充実に左右される。Art Musicはほぼ自己の感性と出音との対話だから本人の情熱がそのまま集中力になりえるが、市場が失われてしまっては如何にPop Musicianに情熱があろうとどうにもならない。作品がPopsとして成立する保証が限りなく低くなるからだ。

市場さえしっかりしてしまえば、作り手には「手応え」というものが生まれ得る。それが期待出来なくなっているのを痛感した、というのはここで半年前に椎名林檎テイラー・スウィフトの話をした時に述べたが、そこから、では、どうしたいのかというのが昔からのPop Musicianの課題だろう。

若い世代については私もよくわからない。無料文化とライブ活動の二極化、という風に遠くからは見えている。興業規模は2015年になっても衰える気配がない。そこにアニメ&ゲーム業界もアイドルも興業に来るものだから、充実の感触は計り知れない。いや、いちばん規模が大きいのは場合によってはアイドル業界のようにもみえるが…。

要は、音楽というものがあまり主役になっていない風なのだ。アイドルもそうだが、イベントやイベントに参加する人間が主役であって、それこそ中身は別にジャンケンでも構わないという勢いになっている。それは極端だけれども、若い世代がクラウド・ファンディングに手が届く時期になっても、全体構造自体は変わらないだろう。

さて。宇多田ヒカルのような"旧世代"はどうしたものか。寧ろ、小さくはあっても(いやかなり大きいけどね)確かなファンベースを築いている椎名林檎とは違って、"音楽主体の本格派なのにファンベースがマスメディア依存"のヒカルは、かなり難儀な状況になっているといわざるを得ない。

周りのスタッフの優秀さは、宇多うたアルバムで痛感した。プロモーション期間後半にぐぃっとギアを上げて、最終的に品切れのお詫び文までリリースする羽目になったのだから見事なものだ。もっとも、更にもう一段優秀なら品切れ自体起こさせなかっただろうけどそれは過ぎた要求というものだろう。

本人復帰ともなれば、その10倍のリソースと迫力でプロモーションが行われるだろう。手腕は大いに楽しみだとしかいえないが、果たしてそこに市場はあるのか。「宇多田の新しいのが出るのか。聴いてみようかな。買おうかどうしようか。」と興味を持ってくれる主体の集合が市場である。そんな人たちが、どれくらい残っているのか。それこそ、手応えがない。

"彼ら"が今人生のどんな位置に居て、音楽はその生活の中でどんな価値をもつのか。理想をいうなら、何もない所に宇多田ヒカルをねじ込める位のパワーがどこかから供給されればよいのだけれど、マスメディアってそんな力が今あるのか。そもそも、宇多田にどれ位興味を持ってもらえるのか。不透明感は日々強まるばかりなのだった。