無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

自分の書いた詩を読んだせい

詩の不可思議は、ローカルな言葉で普遍を語る事だ。そして、ローカルでなければその普遍は語られ得ない。普遍によって普遍は表現され得ない。故に表現とは否定か対なのだ。

表現され得るべき何かを知るには表現を通さねばならず、通されたからにはそれは目的のものではない。通っちゃったんだもの。そして、片方ではどうしようもない。「あなたには見えないかもしれないが、私には見えている。」「私は知っている。」と言うのは自由だが、「私は知っている。」という表現に依存している。対は細切れにされた磁石のように無くならない。そしてそれぞれはもう片方ではない。右は左ではないし上は下ではない。前は後ろになるかもしれないが後ろになった途端後ろは前になっている。どこまでいってもなくならない。

こうやって時計の針は進む。

時間は戻らない。否定に気付いた時に針は進む。誰も気がつかなければ時計の針は進まない。たぶんその時に世界の端まで行って来て、端じゃなかったと、言う。途端に針は進む。それは過去だったのだと。

詩が普遍に届いた。さて、そのような未来はあるか。どのようではない。普遍であるからには、どこにでもあるのだ。いや、ありえるのだ。ポイントはそこじゃない。予言とは、非自明だが明らかな事だ。他によって表現される。ではない片方の事である。

そこが問題なのだ。後にくまちゃんを見つけ解決する。ベストかどうかは知らんが、それはとてもよかった。また夫が見つかったが、結婚をそういう風に見ているかどうかはまた知らない。そりゃ知らんわな。

また予言は当たるだろう。詩とはそういうものだ。

次は日本語で直接書いてみたらいいのに。

また英語かな。
フランス語かな。
イタリア語かな。
Kuma Changの故郷に合わせて、中国語かな。

無関係を散りばめて言葉を創る。しかしどこまでも撒き散らせ切れるものではない。どこかで、繋がってしまう。歌が始まる。また明日。


さてと。ヒカルはきっと頑張っている。思わせぶりな態度を示していると捉えてもいい捉えなくてもいい無言の連続の中で。「私は、誰にも訊かれなければそれを知っている。誰かに訊かれれば知らないと答えるだろう。」と誰かが言っていた。いや、誰が言った事になってるか私は知っているけどな。彼はそうだと答えるだろうか。「早く新しい歌が聴きたい。」の「早く」の部分はきっとここから来る。訊かれなければ知っている。訊かれた途端に知らなくなる。何故かかいくぐって歌は聞こえる。時と時を繋ぐ魔法、それがきっと歌なのだ。