無意識日記々

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引き続き #M1グランプリの話

今年のM1の特徴として、1本めのネタ9本はあれだけ盛り上がったのに決勝の3本がさっぱりダメだった事が挙げられる。これはたまたまではなく、この番組の本質的な問題を反映しているのでは、とみる。

それは、関わる人々の間で番組の目的が共有しきれていない点だ。一応、金看板としては「その日いちばんおもろかったヤツらが優勝」というのがあるのだが、番組中に「人生かかっとるんや!」とマジトーンで叫ぶ人が出てくる事からもわかる通り(余談だが、同期だろうが後輩だろうが審査員にクレームをつけるのはコンテストとしては御法度だ。やるんならもっと笑いを取れるようにもっていかないとね。)、M1グランプリは余りにもコンテストとしての価値が上がり過ぎていて、おもろいかどうかより、結果を出して注目を浴びる事がしばしば出場者側の目的になりがちである。

これは制作側も意図的だ。様々な演出の狙いは、コンテストとしてのドラマティックさの増幅にある。展開はドラマティックであればある程よい。敗者復活戦からの優勝や、9度目の決勝進出にして漸くの優勝など、番組にドラマがあればある程よい。新たなスターの誕生の瞬間を視聴者に目撃して貰う。それを目標にして番組を作っているようにみえる。

出場者はといえば、何より審査員に気に入って貰えるネタを披露する事が目的だ。審査の基準は各自異なるが、技術重視や構成重視、観客の反応など、様々な視点がありえる。また、スタイルの発展性や将来性をみる場合もある。これらの基準を事前に把握するのは難しいのでまずは目に見える成果、「観客に笑ってもらえる」ネタを投入するのが出場者の手段となる。ネタに集中するのだ。


でだ。ここまでだけだと、お笑い番組として重要な視点が欠けてしまうのだ。それは、「この2時間半の番組を如何に面白いものにするか」という中庸な視点である。制作側は外を向いている。ドラマを演出してM1をブランド化し、いわば「伝説」を作りたい。出場者側は兎に角ネタの純度をあげにかかる。この空気に、今回の審査員は迎合し過ぎた。即ち、「2本目のネタが面白くなりそうなコンビを最終決戦に選ぶ」という風にジャッジする人が居なかった(少なかった)のが、最終決戦の3本がつまらなかった理由である。物凄くシンプルだ。

その役割を、かつては松本人志が担っていた。彼はただ審査するだけではなく、番組全体の構成を睨みながら常にコメントと審査をしていた。流石に化け物、台本無しの生放送でコメントを2、3挟むだけで「構成的な笑い」を生み出していた。ボケとフリとオチを二時間半の枠内で振り分けてみせたのである。今回の審査員にはこの技がなかった。コメントでも笑いを取りに行こうという気概は素晴らしいが、局所的なものに止まっていた。であるならば、審査にもまた、二時間半の枠での構成を考える、という視点を持てなかった筈である、と私はみる。

「2本とも面白いネタをしそうなコンビ」を選ぶならジャルジャルはリスキー極まりない。ネタの幅が広すぎる上に、彼らは技巧派である余り観客の心を掴むのが下手だ。逆にトレンディーエンジェルは観客の心を掴むのは早いが芸に幅が無い。銀シャリはかつてのタカトシ同様正統派で確実に笑いを取れるが優勝するような爆発力を持たない。

ジャルジャルは、優勝を狙っていたのだろう、変則技に出ず一本目と同じ構成のネタできた。手堅いが、しかし、パンクブーブーが同じ事をして思いっ切り滑ったのを見ていなかったのだろうか。彼らも最終的には優勝したのでジャルジャルも次に出れば優勝だろうが、少なくとも昨日はまだ2本にまたがって笑いをとれる体勢にはなっていなかった。


こういう話は本当に難しい。ネタに集中する出場者と、番組を伝説化したい制作陣の間で、審査員はうまくコントロールして二時間半の番組自体を面白くしなければならない。今田耕司は司会だが、彼も言っていたように一票も持っていないので影響力は発揮できない。仮装大賞の萩本欽一くらい図々しく点数操作できたらいいんだけどねぇ。

こういった点が、今後のM1グランプリの課題となるだろう。ネタが面白いのもいいし新しいスターの誕生も大事だが、まずは番組自体を面白くする事。その視点をどう構造として具体化するか、である。

次回もまたこの話の続きな(笑)。