無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

最初と書いてハナと読む

昨年末から次々とロック・レジェンドたちが鬼籍に入っているが、キース・エマーソンの自殺はとりわけショッキングだった。その昔アレキシ・ライホが「(自分からギターを取ったら何も残らないので)事故か何かで腕を失ったら自殺するんじゃないかな。」としれっと言っていた事があったが、演奏に人生を賭けるとそんな風に考えるものなのだろうか。神経疾患によって8本しか指が動かなかったというキース。弾けなくなったらというリスクと代替に素晴らしい音楽の数々を創造してきたとすれば、何とも複雑な感情が湧き上がる。来月に予定されていた来日公演のチケット、ビルボードだけあって高額だが、払い戻さずに記念にとっておくファンも何人か居るのではないかな。

春は出会いと別れの季節だ。別れにだって花束はある。歌詞としては“花束側からの目線で描いた人々の悲喜交々”というのもアリかなと思ったが、それならタイトルは「花束が君へ」になっちゃうかな? そこらへんの言葉の感覚からすれば可能性としては低いか。

気がかりなのは、これをどうやって朝ドラの主題歌に落とし込んだか、だ。誰目線で歌っていると解釈出来るのか。勿論歌なんか気にしない、というのもわかるのだが、如何せん今はタイミングが悪い。「あさが来た」に切り込んでくる歌の歌詞が朝から始まるという徹底ぶりだからだ。そりゃあ、ドラマが始まってしまえば前の作品の事なんて忘れてしまえるよ、ヒカルはヒカルのやり方でやっときゃいい、となるんだけど、「あさが来た」の評判が良い/視聴率が高いだけにどうあっても比較されてしまう。

良し悪しである。ドラマの内容がよければ主題歌の評判もよくなるし、ドラマがつまらなければ主題歌の印象は悪くなる。どちらにも引っ張られ得る。その際に、どれだけ作品内容に寄り添っているかで道連れ度は高くも低くもなるだろう。

昨日は朝ドラ主役の2人による恒例の"引き継ぎ"の儀式が行われたという記事が出ていた。いよいよである。朝の顔。宇多田ヒカルに似合うかどうかはわからないが、イメージ戦略の一番手としてはこの上無い。どこまで行くのやら、お手並み拝見と参りましょう。