無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

この日記を読む方が疲れるよ全く

ネット疲れ、と言っても勿論今更インターネットと無縁な生活を送れる訳もなく。ここらへんが弱い。溢れる情報をどう受け流すか、古くからいう"ネット・リテラシー"というものが問われる。

元々言語による交流は、ネット以前からコトの真偽を論うのが基本だ。言葉の本質は嘘だからだ。寧ろ、嘘というリスクを背負う事で「情報伝達」という概念が成立した。目の前の現実を一旦嘘に変換して運びやすくする事で様々な人々に現実を知って貰う事が出来る。その為には、受け手側が嘘から本当を導き出す「逆変換」を携えていなくてはならない。この変換・逆変換の仕組みこそがリテラシーの原点だ。

従って、「嘘ほど拡散し易い」のは不可避なのだ。それが自明な本質だからである。不特定多数を巻き込む以上、共通の変換・逆変換機構を共有する関係は維持できないと考えなければならない。その機構をコミュニティーと呼ぶのだが、インターネットという位だからこの世は網である。闇よりはましだな。

網となって個々が緩やかに繋がった状態では、異なる変換逆変換機構の相互理解というメタレベルの嘘が必要になってくる。踏み込んでいえば、言語の第2層がインターネットの出現に伴って急激に拡大しつつあるのだ。

本来はその第2層を翻訳と呼ぶ。異なる言語は単語の対応表(「道∽road」みたいなの)のみならず、文法の置換(例えば"sing a song"と「歌を歌う」では語順が異なる)も伴う。流石にここから先は長大になるので省くが、同言語内の第2層が必要になるのは、嘘の付き方が逆だからだ。道とroadとは同じ意味だ、というのは単語の対応表だが、道にはroadとsongの2つの意味がある、となると今度は「道」という記号が「新たな現実」となり、そこに新しい嘘を付け加えないと情報伝達の枠組みは維持できない。通常の翻訳とはこの点が異なる。


久々に難易度の高い(というか、この話を知らない人には何の事だかさっぱりわからない)話をしてしまった。要は嘘を吐く為の嘘を吐く、を繰り返して出発した現実に再び戻ってこれるか、という話で、世界の広さは即ち嘘の豊かさなのだが、それはインターネットが基調の話でしかない、と。だからといって今や現実はインターネットなしでは有り得ない。初期かつ過渡期だと思ってある程度は諦めるしかないのだが、そうね、何か処方薬があればまた書く事にしましょうか。嘘を嘘で塗り固めるお話でした。