無意識日記々

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『て』をとりあって

一拍おいて、前々回からの続き。

「欲しがりせがみっ子」のHikkiに慣れない人は『抱きしめて』のあとに『(ほしい)』を補完しないようにすれば、ひとりっこで自己完結で甘えるのが下手なHikkiがちょびっとだけ帰ってくるよ、という話でした。

私が言いたいのはここから。

『大空で抱きしめて』の歌詞の総てにそれが適用できる訳ではないのだ。自然に響くもの、まぁ無理ではないかなという程度、ちょっと無理があるんじゃないかなという程合い、更に…という具合に段階的に適用可能度がバラける。話の味噌はここである。ここなのです。

ひとつひとつ見ていってみるか。

一番のBメロ。

『雲の中
 飛んでいけたら
 大空で抱きしめて』

ここは、前にもみた通り結構自然に入る。肝心なのは何といっても「妄想の前提」=「仮定」であって、「もし仮に雲の中を飛んでいけるようなありえない事ができるのなら」私はあなたを抱きしめてキスをして…という風に繋がる。「(ほしい)」を補完しない以上、外に向けた願望や要望の発露ではない。ただの空想である。勿論前に指摘した通り、空想の中で抱きしめたりキスをしたりする主体は私だろうが僕だろうがあなただろうが君だろうが構わない。実現させる為の言葉というよりは、ありえないからこそ空想の中で"世界の神様になってみて"自分の望ましい展開を想ってみるそのスタンスが重要だ。

次。

『いつの日かまた
 会えたとしたら
 最後と言わずに
 キスをして』

つまりここでも『いつの日かまた会えたとしたら』は"ありえない空想"である。尺の都合で少し言葉足らずだが、『最後と言わずにキスをして』は「最後と言わずに何度でもキスをしてほしい」と解釈するのが正準である。で。今の場合は「私は最後だなんて言わずにただキスをします」という風にもとれるよ、という話になる。「(ほしい)」を付け足さないならば。そう読むと正準解釈での言葉足らず感は解消されるものの、やや感情移入に抵抗のある一文ができあがる。つまり、ちょっとこの解釈には無理があるかもしれない。五分五分といったところ。

さて更にその次、だ。

『もし夢の中でしか
 会えないなら
 朝まで私を抱きしめて』

この文に関しては『私を抱きしめて』のあとに「(ほしい)」を付け足せないとするとかなりの無理が生じてくる。『私を』と対象を限定しているから、ではない。そこではなく、その前提となっている仮定の表現に違いがある。『しか会えないなら』だ。

ここまでの仮定の表現は『飛んでいけたら』と『会えたとしたら』であって、もし有り得ない事が起こったとしたら、つまり不可能が可能だったら、というある意味とても空しい言い方であった。つまり実はこれは自分の願望の否定に近いのである。「もし仮に雲の中を飛んでいってあなたに会えるような事があれば抱きしめたりキスしたりしたいよ、だけどさ、そんなことは有り得ないんだからさ…」というのが"本当に言っていること"であった。つまり、諦めの表現である。

しかしここで。『しか会えないなら』が出てきた。こるは確かに論理的には『夢の中でなら会える』という命題を導出できる。しかしこれは歌であって、言葉の選び方で感情の揺れ動きを表現しているのだ。「夢の中以外では会えないんだから」というのは、会えないという本当の現実を直視する表現になっているのだ。それまでの歌詞とは事情が違うのである。

長くなったのでこの続きはまたいつか。次回か否かは私にも謎。