無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

最後の一言に私も凄く共感します

昔からの音楽の楽しみ方といえば、お小遣いを貯めてお気に入りのアーティストのアルバムを買い擦り切れる程聴き込んでコンサートに赴く、なんて感じだったが、21世紀に入って定額配信で浴びるように音楽を聴きフェスティバルに赴いてさてどれとどれを観て回ろうかなと悩む──そんなスタイルに変化しつつある。

砂漠の中のオアシスを見つけてそこにこだわるような楽しみ方だったのが見渡す限り水の超デッカいプールでプカプカ浮いているような。ちと違うか。でもそんな感じ。限られた娯楽から、そもそも出発点が飽和状態でどれかを選ばなければ何も始まらない状態にいきなり飛び込む。飛び込まされる。そういう価値転換が娯楽の世界に起こりつつあるのだ。湯水のように、という言葉があるが、音や絵や字といった"情報"もまた価値が飽和しつつある。

本来ならそれを"インターネットのせい"と言っておけばよかったが、ロックフェスティバルってインターネット関係ないんだよね別に。ウッドストックって1969年だからね、49年前ですよ。それが日本ではフジロックの成功を機にこの20年。すっかり定着してしまった。幾つもあるステージ、幾らでもいるミュージシャンやバンドから、気に入ったものを観る、或いは、偶然鉢合わせたものを楽しむ。昔「ライブコンサート」と呼んでいたものとは根本的に楽しみ方の質が違うのだ。

いや勿論昔ながらの楽しみ方がなくなった訳でもないし、衰えているとか言うつもりもない。しかし、定額配信のみならずコンサートまで「溢れる選択肢の中から、対価を払わずに選ぶ」方式が定着していくと、音楽の楽しみ方の意識の変化から、次に生まれてくる音楽の方向性に何か新しい局面が現れてくるのではないかという予感がしている。

選択に対価があると選び易くなる。こちらのあまおうが500円、こちらのとちむすめ(ですよねー(笑))が600円、という値段がついていれば選択の助けがひとつ増える。味が互角なら安い方を選ぼう、とか、逆に値段が高い方が美味しいに違いない、とか。

定額制は、一定額を支払った後はあらゆる価値の対価が0になる。したがって、何の寄りどころもなく自分の満足する音楽を選んでいかなければならない。すべてがフラットなのだ。

ランキングが廃れているのもこれに拍車をかける。昔はランキング上位にくる曲をチェックしていれば楽しい、という人も多かったが、その権威を秋元康が無効化した為、音楽を聴くのに自分の趣味嗜好を自問しなくてはならなくなった。なお、「ランキングに基づいて音楽を聴く」のが趣味だった人のうちで「音楽かどうかにかかわらずランキングウォッチ自体が楽しい」というタイプの人たちは軒並み秋元康が取り込んだ。なんちゃら総選挙はテレビ中継までされてるそうな。いやはや。

という訳で、今ミュージシャンは皆がフラットになっている地平で目立たなくてはならなくなったのだ。この様なご時世にどんな戦略を立てればいいのか…?という話からまた次回、なのだがヒカルはいつ出てくんの?