無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

私は知らないから生きている

私がここであんな事やこんや事を1ヶ月とかかけてネチネチネチネチ叩くのは、離れる気がないからだ。ネットを見てると近づかない方がいい人たちがわんさか居て、即座に離れる。見た事すら、居る事すら触れない。どんな中身だろうと、関わりを持たないのが最善だからね。そっと閉じて離れる。それをいつまでも繰り返すだけだ。

しかしヒカルの周りについては別で、離れる気も目を瞑っている気もない。見て腹を立てれば腹を立てたと書くし、苛つけば苛ついたと書くし、それが誰かに伝わる。私が言っても何の説得力もない(自分自身すら説得できない)のだが、こういうのも「覚悟」のうちのひとつなのだろうか。そこまでは考えていないかもしれないが、やるなら徹底的に、だわなー。

何の話だっけ。今日はもうずっと頭がグチャグチャでな。子を喪った親の気持ちがどんなものか、本気で想像したら膝から崩れ落ちるので、なるべく考えないようにした。一度、悲しみに沈むしかないのではないか。そこから先の事なんて考えても仕方ない。ただ感情が在る事を知る。それでもう精一杯だろう。自分が今呼吸をしているという、その事実とひたすら向き合うしかない。人は狂える事もまた救いなのかもしれないとまで思った。

宇多田ヒカルファンサイト(懐かしい響きだな)の一角/末席としては、これは独り言とまでは言い切れないが、人生は一度きりだ。

ヒカルが未来を過去と変わらずに捉えられているのが未だに理解できなくてな。過去は確定したひとつ、未来は不確定な可能性の際限ない分岐、というイメージをヒカルは持っていない。確かに、未来に沢山の可能性があるというのは我々の無知からくる錯覚である、という論を反駁するのは無理である。証明しようとしたら、未来は忽ち過去となるのだから。間に合わない。

ヒカルは、既に未来もひとつであるかのように言う。ただ知らないだけだと。本気でそう思っているなら、強すぎる。未来が可能性に満ちているから人は赤信号で止まるし、ご飯を食べる前に手を洗うのだ。事故に遭うかもしれないから、ばい菌がついているかもしれないから。しかし、"本当の未来"は既に決まっていて知らないだけだとなったら、人は生きる為の努力に本腰を入れられなくなる。厭世的で虚無的で怠惰で無気力な状態になる。だから人は不安と期待を原動力にする為に自らの無知を「未来は可能性に溢れているから」とごまかして、頑張る。そして、そのごまかして頑張る姿もまた本当の未来なのだ。

ヒカルはそんなものがなくても頑張ってしまうから、不安や期待に動かされる必要がなく、未来が確定したひとつだと言い切っても揺るがない。強すぎる。とても、かなわない。

人が死んだ時、遺された者たちは死ぬほど悔いる。あの時ああすればよかったかもしれない、こうしてればもしかして、と。その葛藤の過程すらも"決まっていた未来"に過ぎないし、そこから立ち直って、或いはそのまま付き合いながら生きていく未来もまた、最初から決まってた事なのか?

その割に次はこう歌う。『次は君次第』と。ほんの一瞬垣間見せた弱さなのか、はたまた僕らに気をつかってくれる優しさなのか。『全ては必ず必ず』。だとしたら、『君』に出来る事は何? 知らない。だから生きている。