無意識日記々

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まどか☆マギカ/ひかるムジカその3

年間20mSv位ならそれを気にするストレスの方がよっぽど躰に悪いんじゃ…っていう定量的研究ないですかね。一時間で20mSvだったらヤバいと思いますが、一年は8760時間あるからね…大ざっぱに云って一万分の一ですよ…

だなんてテレビで云ってる人を見つけてみたい。その前にテレビあんまり観てないですが。

まどか☆マギカをみて、また隣の芝生が青く見えた事は正直に告白せんといかんやろうな。オトナになってもアニメ観てるやなんて精神年齢低いんとちゃうか、なんてことをいう人は私らの世代では随分と減ったと思うけど、そういうのと関係があるのかないのか、作り手側・送り手側に"受け手を上手に導こう"という強い意志が、様々な形で、恐らくこの30年は特に、強く出ていてなんだか羨ましい。

まどまぎも、最初はおもむろに魔法少女モノの定型に従って導入部を描き敷居を思いっきり(アニメファンにとって)低くしておいて、という丁寧さが実にいい。12話まで見終わったあとにもう一度第1話をみると「思えば遠くにきたもんだ」という感慨に浸れる。たった5時間でここまで連れてきてくれるのは、演出技術の歴史的蓄積があるからだ。

小説でいえば村上春樹がこの「低い敷居からスロープを上るように下るように」非日常の世界に導く天才のようだが(まだ殆ど著作を読んだことがないから詳しく知らない)、アニメの世界では受け手がそれまでのアニメの歴史をそれなりに踏まえている事を要求したり、知っていればより楽しめるような仕掛けをふんだんに盛り込んだりする。最近はそのような事前知識なしでもエンターテインメントとして楽しめる技も冴えてきていて(新世紀EVAなんてその代表格だ)、なんだかアニメの世界って、市場規模の拡大や縮小はともかく、文化として確実に成長しているなぁという気が強くする。

再度、タメイキをつく。羨ましい。

音楽に関しては、日本にはそういうマニアを喜ばせつつビッグコンテンツであるような例が少ない。例えば、奥田民生Puffyの曲でTheBeatlesのフレーズを引用したり、なんていう遊び心が、もっと洗練されて溢れている方が楽しい。なんだか、みんな音楽的に孤立している。相互作用によるかけ算の力が薄い。

まぁ尤も、フェスティバル形式が定着してまだ10年といったところなので、これからだとは思うけど。

宇多田ヒカルは、そういう"ファミリー"や"ミーム"(文化的遺伝子)といった概念から疎遠である。何しろ、宇多田ヒカル内の楽曲群すら相互にあまり干渉しあわない。あるスタイルをもった曲は、いきなりそのスタイルの最高傑作として姿を現し、次はまた違うスタイルの楽曲が現れ、またそれも最高である。つまり、なんだ、実は不満がないのである。曲が最高なんだから、他との相互作用もオマージュもパロディも要らない。

それが、なんか変な感じなのだ。

隣の芝生は青いなぁと思ってこちら側の芝生を見ると、やっぱりもっと青いのである。


これでいいんだろうか。

いいんだろうなぁ。不思議だ。結局、"ここ"から何処にも行く気がしない。あとはどれだけ近付けるかだけであるが、それはそれでとても遠いような高いような、でもやっぱりすぐ傍に居るような―。