無意識日記々

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風の匂い、風の向く時

日本は今バブル崩壊から後の「失われた20年」を未だ脱却できずこのまま次の10年も同じようになるのかという予感がありありだが、世界的にみてもやはり1990年前後から何かが停滞しているようにみえる。日本だけの話ではない。

東側の体制崩壊湾岸戦争などの大きな事件も象徴的だが、もっとシンプルに音楽ファンとして実感するのは、特に00年代にあまり何も起こらなかった感じが強い。メタラー視点でいえば1991年にNirvana.Guns&Roses,Metallicaがブレイクしてメジャーの契約するバンドのサウンドが一変した事がとても大きかった。

そこから何が起こったかといえば、Nirvanaカート・コバーン(コベインって発音しますねけど)はロックの伝統に倣い27歳で死去、有り余る富を手に入れたG&Rのアクセルはバンドのメンバーの首を次々と切り14億かけて14年間アルバムを作り続けた。91年にショックを与えた歴史に残る3バンドのうち、ずっと元気に"普通に"活動してくれたのはMetallicaだけだったのだ。

この"構図"が、重音楽における"失われた20年"の基盤になっていると思われる。少なくとも10年はシーンを音楽的に牽引すべき存在が、一人は死をもって姿を消し、一人は生きながら姿をくらました。この歪さを背負ったまんまやってきた20年な気がするのだ。60年代のThe Beatlesや70年代のLed Zeppelinみたいにせめて10年活動してくれていれば。

00年代の何にもなさは、その90年代の喪失感を基礎として持つしかなかったから生じたものだろう。やるせないが、かといって個々の音楽に光るものはいつの世とも違わず沢山あった。ただ、全体を貫く"時代の匂い"というものが感じられない、その一点に尽きる。

私個人は、光のお陰で00年代を楽しく過ごす事ができた。時代云々などどうでもよく、ひたすら宇多田光という個と向き合えるのが嬉しかった。ただ、光の方はどう感じていたのだろうか。ポップミュージシャンが、時代の風の匂いにこだわらなくてもいいものなのか。

幸いに、というべきか過酷にも、というべきか光は作品を作るごとに"自分自身と向き合う"ことに重きを置いていった。こちらが宇多田光と向き合うのと同じように、宇多田光は宇多田光と向き合った。バストアップがずらりと並ぶアルバムジャケットは、我々にとって光からの光が届く窓であり、光にとっては自らの放つ光を浴びる為の鏡となった。

こちらとしては、光さえ居れば時代なんか要らないのだ。何かが時間の流れを貫く必要すらない。光がそこに居て、それでいい。だが、それでもなお時間は流れる。どうしてもそれを感じ取ってしまう。それに意味があるのかないのか、その答えを知りたいかどうかさえもわからないが、光が今人間活動と称して"普通の時間"と向き合っているのだとすれば、それは進化なのか退化なのか成長なのか衰退なのか、なんだかちょっとわからない。

アクセルが14年ぶりにアルバムを出した時、その心のこもった歌声をきいて、彼は取り残されたんだなと思った。その瑞々しい感性は、昔と全く変わっていなかったからだ。あの、10代の頃のような繊細で脆いけれど鋭利な感性。でも、周りは時代とともに14年分、みんなみんな年をとっていた。アクセルに対して、"それどころではなかった"のだ。ロックの繊細さは、時代遅れですらあった。サウンドはアップデイトされてたんだけどね。

光が戻ってきた時、光はとしをとっているのだろうか。傷つきやすいまま大人になって、昔と変わらず胸がきしみ裂けるようなエモーションを振りまいてくれるのだろうか。時代の風はどちらに向いて吹いているだろう。風向きがどうであれ、私は光の方を向いているでしょうが…。