無意識日記々

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inversionと変態な私

「低線量放射能の人体への影響なんて大したことない」と誰かがいえば決まって「内部被爆を考えろ」とコメントがとんでくる―この数ヶ月ですっかりお馴染みになった光景だが、私の見たこの内部被爆を持ち出す全員が、同様の思考過程を経てコメントしているようにみえる。

まず彼らには「放射能は恐ろしいものだ」というシンプルな先入観がある(先入観には正誤は関係ない)。その為、それが危険ではないという冷静な議論を目にすると「そんな事はないはずだ」と、放射能が恐ろしいという先入観に合致する材料を探そうとする。そんな彼らかすぐに行き当たられるのが内部被爆の危険性という訳だ。

本来、論理とは答えを決めてから組み立てるものではない。与えられた命題から一定の規則を用いて話を展開させる技術である。なのに、まず答えとなる命題を用意してそれに合わせて論理を構成しようとするのが人間である。私はそれを個人的に纏めて"倒錯"と呼んでいる。(他にもそういう言い方をする人が居ると思うが、あんまり一般的でない気がするので)

人が倒錯に陥った時には本来の論理的な考察能力がずどんと落ちる。傍から見ているとその鮮やかさに唖然とする。ついこの間まで「原発は安全だと言っていたから信じていたのに騙された!酷い!」と憤っていた人たちが今度は「電気は足りる。大丈夫。」と言い切る説をあっさり信じている。これも、論理的に考えれば片方だけを信用する道理がないのだが、最初から誰を信じているか決めている人たちには冷静で演繹的、論理的な議論は通じない。最初の先入観を塗り替える以外方法はない。それが倒錯というものでありとるべき対処法だ。

誰かのファンをやっていると必ずこの倒錯に陥る。最初は彼女の事を好きになる具体的なキッカケがあったハズであり、その要素、その場面が再来した時に愛情なり嗜好性なりが確認できるものだ。曰く、歌声が美しかった、笑顔が素敵だった、メッセが面白かった、等々。

しかし、彼女のことが好きだという先入観が植え付けられてしまうと我々はとんでもない行動に出る。例えば、彼女がライブ中に汗を拭っていたタオルを取り出して、「これでチャリティーオークションやろっか」と言ったら、多分ここの読者の何%かは確実に落札にかかるだろう。間違いない。私もたぶんいっちゃう。彼らの財力にはかなわないから落札できないだろうけど。(彼らって誰だよ)

しかし、ちょっと待て。その汗まみれのタオルに、一体何の価値がある? この中に、宇多田ヒカルを好きになった理由がその汗だという人が居るか?? 居ないだろう。居たら居たでその人とはウマい酒が飲めそうだけど。(ぉぃ) 汗タオルに魅力なんかない。魅力を感じた人の汗だから、価値を勝手に付加しているだけなのである。もしかしたらいい匂いがするかもしれないが、彼女の匂いでファンになった人なんて居ないだろう。それを理由に落札できる人なんて居ない。なんかこのエントリー変態さん限定になってきている気がするが大丈夫か?

大丈夫だ。即ち、我々は何らかの理由で好きになってきたハズなのに、いつのまにか「宇多田ヒカルが好き」という前提、先入観で動くようになっているのだ。そこの所を突っ込んでいつも考えていないと、すぐ倒錯を起こして汗タオルを落札しにかかる。(すいません) 放射能は怖い、と定量的な認識度外視でイメージをインプリンティングされている人に"説得"や"議論"が通用しないように、既に好きなのが当たり前になっている人に何故好きなのかを議論させても無駄である。それが大前提なのだから。

それでは、いけないと思う。何故彼女のことが好きなのか、どういう風に好きなのか毎日自省していかないと、すぐに倒錯に陥り本来の愛情の居場所と理性を失ってしまう。我々の愛の在処を見失わないように、私はこれからも此処の更新を続けていきたいと思う。でもやっぱりタオルは欲しいですスイマセン。(やれやれ)