という訳で本日は藤圭子様、純子様のお誕生日。昨年の今日、光は大賀ハスのメッセージでお祝いしていた。今年はどうするのかな。ツイートは中身がどうのという話ではないし、立場も何も考えなくていいとは思うが、EMIに間借りしている形のMessage from Hikkiはやはりアーティストとしての活動に入るのだろうか、だとしたら暫くはあのまんまかな。
さて、僕らの方にとってメッセのコーナーとは一体何なのだろう。考えてみたけれど、いい形容が思いつかない。何か他の言葉や概念で代替されるようなものではない、ということだろうか、メッセは、メッセだ。あそこには大量のドラマがあったし、これからもあるだろう。ありとあらゆる感情が想起され、なくなることなど、ない人生など考えられない。実際、あそこがなかったら私はこんな所でこんなことを書いていないのだから。
なんて事をファンの側が書いてしまうと光にしてみれば気楽にどうでもいい内容を書いて投稿するのがやりづらくなるから痛し痒し。しかもそのどうでもいいような内容ですらなにやら感動を振り撒いてしまって戸惑う。見られる視線の集積の上に祭り上げられているようにすら時に感じる。
ツイッターとの挟み上げは、従って、効果的ではあるものの、なんというか、重さの面白さみたいなもんは薄れさせられる。当初からわかっていたことだったとはいえ、記事になりリプライまみれになり消費されてゆくツイート。どうなることかと心配したが、なんだか案外揺るぎない。ノリツッコミのマイペースさも、いい感じ。
母への挨拶をツイートで済ませる感じは想像つかないし、ああいう場に母の名前を踊らせるのは何となく気が進まない雰囲気ではある。かといって今メッセは敷居が高い。いやでも関係ないか。『お母さんに会いたい』と歌いきった今なら、何をどこに書いても案外揺るぎない、まんまな気がする。
どちらかというと、2人きりで会ったエピソードを後日披露してくれるとかだったら面白いかなとも思う。親子の距離感なんて、大抵当人たちからして測りかねているのだから、僕らからすればその姿は想像する事すら難しいが、同じような時期に同じようにマイクを置いたもの同士の会話は、やっぱり気になるし、それを載せるとしたらやっぱりMessagd from Hikkiしかないかな、と思う。雑誌とかが親子対談申し込んでも断ると思うし。誰か照實さんにライ麦片手にお願いにいくかな? ないかー。やんわり断るだろうな。