無意識日記々

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Baby, take it easy on yourself

インタビューでUtaDAは、This Is The OneがFirst Loveアルバムに似た感覚があった事を告白している。編曲を他者に任せ自身は作詞作曲に集中し、結果その時期のモダンなメインストリームサウンドに仕上がった点は、確かに共通している。メロディーの強さという点では、寧ろアベレージとしてはTiTOの方が強い位だが、やはり曲の骨格としての強さを備えている点で、他のアルバムたちとは異なった感触を残す。

一方、この2つのアルバムで決定的に違う点は"ミュージシャンとしての自覚"である。First Loveでは失恋3部作にみられるように、歌詞は徹底的にその役になりきって書かれており、それは超然的なtime will tellですら共通している。翻ってTiTOの方はAutomatic Part 2に代表されるように"UtaDAとして"の視点から書かれたものが幾つかある。On And Onもそうだし、Poppin'も同類か。物語の中の役を演じる歌詞でも、FYIではミュージシャンである事を匂わせる箇所が出てくる。こういった歌詞は、First Loveではなかったことである。

勿論、日本語と英語の違いもあるだろう。両盤とも変わらず美しい失恋の歌を主人公になりきって歌っている点は似通っているし、それは言語に関係なくミュージシャンとしての光の個性である。だが、『私はあなたを楽しませる為にここに居る』とわざわざ歌って聞かせるのは、確かにアメリカのミュージシャンでは珍しいことではないにせよ、光がそう言い切る事への違和感はやはりあった。違和感というと違うか、そういう何らかの意図、機能を目指してその頃音楽を作っていたんだとしたら、随分精神が疲弊していたのではないか、いきあたりばったりを旨とする人間が、そういう社会的な意図や機能の許で半年も一年も曲作りしていたとすれば、どこかでモチベーションが切れてしまったのではないか、後追いでそんな事を考えてしまった。

そこでふと気がついたのがMe Mueroの歌詞である。曲調はラテンでどちらかとあえて言えば陽気な曲調なのだが、歌詞は今までで最も荒んでいてモチベーションが上がっていない状態を歌っている。On And Onで始まり、真ん中にAutomatic Part 2を配したアルバムで、エンディングがフィクションというのはどうだろう。別に構わないといえば構わないが、何かやはりMe Mueroには、光の本音としての退廃が込められているような気がしてならない。

自己紹介を含む歌詞とそれに伴う意図した機能・作用を託された楽曲群。このプロジェクトを遂行するにあたり、光の精神はかなり衰弱したのではないか。邪推にしかならないが、結局扁桃腺周辺の炎症という物理的病理的な原因でアメリカ発売週にUtaDAはプロモーションをリタイアするが、精神的なモチベーションが上がりきらない中でプロフェッショナルな意地だけでカラダを動かそうとしていたのではないか。Me Mueroを聴くと、どうしてもそんな連想がはたらいてしまうのだ。

しかし、それも今は昔。今回は素直に自分から休んだ。無自覚だったFirst Love, ミュージシャンとしての自覚で作り上げたプロフェッショナルなThis Is The One, そして、自分が何者であって、何が必要で、どこまで無理がきくかをしっかりと見極められるようになった今。Single Collection Vol.2で光の一人称で歌われていると明確に感じられるのは嵐の女神だが、ここには意図や機能やそれに対する自覚もない。ここにあるのは、『お母さんに会いたい』という自分の祈りへのきづきであり、それを受け入れられるようになった自分の大きさであったのだ。光は、大丈夫になったからアーティスト活動を休止した。自分に足りない何かに怯えて音楽に従事する必要は、最早なくなったのである。