無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

うつろ・うしろ・うしなう

私が個人的にインパクトが極大だったのはPrisonerOfLoveEPとSanctuaryOP&EPだとは何度も書いているが、それぞれ既に楽曲の骨格を知っていた状態で新しいバージョンを聴いただけなのに何でそんなに心を揺さぶられたのか、未だに不思議でならない。

特に、Sanctuaryの方は、サウンドはそのままに歌詞が英語になっただけで、私にとってみればよりわかりにくい方向への変化である。英語の歌詞なんてまともに聞き取れないのだから。なのに、涙が止まらなかった。文字通りに。あの感覚は何だったのか。

思うに、私が何かを喪っていることを、この2曲が痛烈に教えてくれるからではないか。実際にそれを喪っている事を、恐らく私はこれからも永遠に気づけない。それが本当に喪うという事だから。何かがない、という感覚を喚起するには、英語の歌詞の方がよかったのかもしれない。

Passionと較べSanctuaryの歌詞は更に象徴的、幻想的で、書き起こして読んでみても意味がさっぱりわからない。内容としては、PassionのPVで描かれていたような世界観なのだが。勿論、未だ正式な歌詞のプリントは存在しない訳で、書き起こしが正しいか否かもわからない。

ふと、光がモーツァルトのレクイエムについてコメントしていたのを思い出す。曰く、何を言っているかわからないが、意味がわかる気がしたと。そして、原詞をあたってみると果たして自分の解釈通りの内容であった、と。同じ事が私にも起こったのかもしれない。聞き取れない英語の歌詞の内容が、サウンドを通じて私に届いて心を突き動かしたのだと。

しかし、光のケースと私の違う点は、私に何の解釈も存在しないことである。私にないもの、或いはあったけれども見喪ってしまったものが私の許に届いたとしても、私はそれが何なのかわからないし、解釈のしようもない。しかし、喪失感自体は、何故か共有できている。それは、光は変わらず持ち続けている何かかもしれないし、光ですら喪い始めている、或いはもう喪ってしまったものなのかもしれない。それをもう持ち合わせていない私には、その判断をするだけの力がない。或いは"喪う前"を私が持っていたと思い込んでいる事も間違いかもしれない。

それでも、Sanctuaryは私の心を突き動かす。この神曲が描く聖域とは、個々の心の聖域を飛び越えて、或いはそこから更に深く潜り込んで辿り着く、この世界そのものの聖域なのかもしれない。だとするとこの曲に触れて涙を流したのはこの世界そのものであり、私は身体をちょっと貸しただけだったのかもしれない。だとすれば、私が何が何だかわからないままなのにも、合点がいくのだが。

そんなぶっ飛んだ事まで考えさせるなんて、全く大した楽曲であるな。やれやれ。