無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

PrivatinessPrivatism&Privation

光が一曲として手を抜きたくない、と思うのは、標準的な邦楽プロアーティストからは外れている感性だ。だからこそ規格外のヒットを連発出来た訳だが、この13年間(いやまぁ去年までだと12年間)その矜持を一度として解かずに駆け抜けた。既にこれで稀有だ。いやまぁデビュー曲で既に唯一無二でしたけどもね。

それについてはまだ続きの考察も有り得るが、そこを一旦すっ飛ばして復帰後の事を考えてみる。果たして、この「捨て曲なし」の矜持は、今までと変わらず堅持していけるのだろうか。

ひとつすぐ考えられるのは、作り上げた曲総てを発表する今のスタイルを捨て、完パケを作りながらリリースする作品を選ぶ事である。勿論、今までだってそうやって"お蔵入り"になってきたアイデアは沢山あるだろう。特に、Celebrateの影に隠れたバラードなどはかなり完成品に近かったと考えられる。然し乍、基本的には光は「リリースの約束(〆切ですね)があるから完成させる」人であって、その逃げない感性がここまでのテンションを担保してきた訳だ。果たして、世に出さない曲を生産する"やる気"みたいなもんを、維持出来るかどうかは疑わしい。

でもそこをクリアーしないと、「出す曲総てに捨て曲なし」の看板を捨てなくてはいけなくなる。どちらをとるか。

そこでひとつ考えられるのは、"プライベートでの音楽活動"だ。宇多田光という人は、デビューから、いやデビュー以前から、歌い始める時からしてスタジオで両親に「歌ってみない?」といわれてスタートしており、日本デビューアルバムもレコード会社から(三宅Pから)の依頼で始めたのだ。常々、楽曲制作は依頼ありき、仕事ありきだったのである。そこに生来の負け嫌いとプロフェッショナリズムが重なってこのキャリアを築き上げてきたのだ。成り立ちからして違うのである。

勿論、普段からMacを引っ張り出してきてアイデアを生み出し整理するような作業、遊びはしていただろう。インタビューの節々で、過去に書き貯めておいたアイデアを援用したととれる発言は幾つかしている。

今回は、そこから一歩踏み込んで、仕事以外でも完パケとしての"楽曲"を生み出す側面も持ってみたらどうか、と提案してみてる訳である。

成熟したアーティストとして、選択と集中が特化し、仮にその事態が避けられなくなるのならば、そして、捨て曲なしの矜持を堅牢にしたいのならば、そういったアプローチもまたアリなんじゃないか、そういう事なんだが、でも、創作発表のペースが格段に落ちるのが難点なんだよねぇ。そこの所についてはまた次回。