無意識日記々

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時を超え今に還る情熱の在処

歌詞の内容からすれば、PassionよりKeep Tryin'の方がよっぽど"情熱的"である。これほどまでに何かを願い求め挑戦していく事を表明した楽曲もなかなかない。光の言語感覚と辞書的な意味がズレているという可能性も考えられなくはないが、そういうバランス感覚については、1年で5年分の漢字を覚えたような日本語外様な人からすれば、生粋の日本語人よりは敏感なのではないかと思えるので、気にせずに曲づくりを行ったとは考え難い。

"情熱的"といえば、方向性は異なるがBe My Lastもそうだろう。『間違った恋をしたけど 間違いじゃなかった』などと言われては、ねぇ。

Passionは、斯様に情熱的な歌詞に挟まれて3部作の中陣を張っている。その当人が情熱の生々しさから一歩引いた、達観的な、超越的な世界観をみせているのは興味深い。

となれば、キプトラで散々歌われている『どうでもいいって顔しながらずっとずっと祈っていた』『ほんとは誰よりハングリー 気持ちの乱れ隠しても』『クールなポーズ決めながら実を言うと戦ってた』などのムッツリツンデレぶりは、Passionに向けられていたという解釈も成り立ちそうだ。

といっても、Passionの時にとりわけ澄ました顔をしていたとかではなく、その時はその時でこれがPassionだと考えて曲に名をつけた訳で、キプトラみたいな曲を書いてた時の精神状態からその頃を顧みてみればそう言えなくもないかな、という程度だろう。

当時から随分と年月が経ち、どちらからも等距離で居られる今の時点から眺め直してみると、ただこういった楽曲たちが形を成したという時点で、そこに何らかの情熱があったと捉えていいのではないか、情熱のクオリアに定形はないのではないか、ここにこうして生まれている事自体が情熱的なのではないか、という風に思える。

かといって、辞書的な、通俗的な意味での"情熱"に変化があったかというと、高々数年では、ないと言っていいだろう。しかしながら、言葉は数百年単位でならかなり劇的に変化する。そのうち、情熱やらpassionやらPassionやらパッション屋良(元気にしてるのだろうか)といった日本語の単語の意味が変わっていくという事もあるかもしれない。もしそうなった時でも、Passionは相変わらず情熱の本質・根源を突いているだろうし、Tryし続ける事の大切さは変わってないんじゃあないかな…。