無意識日記々

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ながいな

くまちゃんに声をあててみる、という試みは、つまり光にとって彼がどれだけリアルな存在なのか、という事を感覚的に捉えてみたくなったからだ。腹話術なんだから自分の思い通りに喋るんだろうといいたくなるが、さにあらず。物語を書く人は皆(でもないか)言うが、キャラは"勝手に動く"のである。くまちゃんも、多分ほどなくして光の手を離れたキャラクターになっている筈だ。彼は、光の思い通りになる訳ではない。

光がくまちゃんとの対話で多くを得てきただろう事は想像に難くない。ただのぬいぐるみだろうと言う人は考えてもみて欲しい、彼が居なければ生まれなかったものが世の中に沢山あるのに彼がそこに居ないだなんて、どうして言える? 確かに、通常の意味での存在ではない。生き物ではない。実際は綿だ。光がタイピングしなければ一切何も喋らない。しかし、この世に影響を与える為に宇多田光というチャンネルが必須な事がどれだけ重要なのか? 私だって指や喉や瞳孔が動かなくなれば、たとえ幾ら実際にここに居たとしたってぬいぐるみのくまちゃんと何も変わらない。こうやって目が見えて指が動くから私がここに居る事がわかるのだ。その意味で、くまちゃんが"ここに居る"と言えるのは宇多田光ただ1人だが、1人居れば十分だろう。彼女がそう言い続ける限り、彼は実際にそこに居るのだ。存在とはそういうものである。架空とか妄想とか呼ぶのならそれもまた適当だろう。架空は架空として、妄想は妄想として実際にそこに存在しているのだから。


話を戻してみる。そんなくまちゃんに"誰かの声をあててみる"という思考実験だ。その時に感じる違和感、その時に感じるフィット感。それが我々ひとりひとりがもつくまちゃんのリアリティである。光の言葉を通して、いつの間にかくまちゃんも我々の心の中に住んでいる。実体は綿なのだが、そういう"統合思念体"としてのくまちゃんには意義がある。これが行き着く先は、皆さんお馴染みの"宗教"、即ち神なのだが、恐らくそう言われると殆どの人が嫌悪感に似た感情を抱くだろう。くまちゃんはくまちゃんであって、そういうのとはちがうんだ、と。

光はこの点についてどう考えているのか。"熊崇拝"というキーワードまで出してきた事があるが、それは世のくま全般の話であって、"ひかるちゃん、しげきてきだよぉ"のあのくまちゃんの事ではない。Kuma Chang、中国出身で水戸黄門派のゲイである。まくらさんと懇意だ。あのくまちゃんは、確かに信仰の対象ではない。我々の中で、くまちゃんとしか言いようのない位置を占めている。


突然、『あなたなしで生きてる私』のフレーズが頭を過ぎる。光は、くまちゃんなしで生きていけるのだろうか。そんな事を望んでいるのか。くまちゃんという永遠。くまちゃんという刹那。その存在を理解しなければ宇多田光への理解は覚束ない。

その為に、声をあててみた。そもそも論である。あなたの頭の中で、くまちゃんに声色はあったのか。光の声だった? なかった? それとも朧気ながら声色を持っていた? 普段何気なく通り過ぎている事と改めて向き合うと、一体どうしてたのかさっぱりわからなくなる。その時に、新しい何かを手に入れる下準備が出来てくる。それもまた人間活動のひとつと言えるかもしれない。長い。