無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

宇多田ヒカルでイヤフォン選び2

予め断っておこう。Hikaruの歌の素晴らしさを堪能する為には、イヤフォンなんて100均で売ってる片耳イヤフォンで十分だ。それ以上は必要ない。それで十分感動出来る。再生機器も、電気屋で550円で売ってるAMラジオで十分だ。ぼくはくまやPoLの時に指摘した通り、Hikaruの曲と歌声はAMに強い。モノラルで、雑音交じりで、ダイナミックレンジなんて概念すらない世界でもその音に心打ち震わされる。何だったら多分ソノシートでもOKかもしれない。チョコレートのとかあったよな〜懐かしい。小学生1年生の付録で「紙で作るソノシートプレイヤー」っていうのがあって…いや2年生だったかな…どうでもいいか…。

兎に角、Hikaruの歌声を楽しむ為には高音質なんか必要ない。最低限メロディーが捉えられれば十分である。実際、イヤフォンなんて売れ筋は2〜3000円クラスであり、みんなそれで満足しているのだ。

それを踏まえて、敢えて言いたい。Hikaruの歌は、いい音で聴けば聴く程感動が増す。断言である。

まず、歌の繊細な表現力。言うまでもないだろう。微細なビブラート、ブレスの使い分け、微弱なエアの出し入れ、喉の開閉や母音の使い分け、溜め、引き、兎に角ありとあらゆる歌唱技術が堪能できる。これを聴き逃すテはない。そして、それは再生機器の解像度が増せば増すほど鮮やかに、違いがわかるようになっている。それ位に細かく歌い分けているのだ。

次に、コーラスワークの多彩さ、多重さである。前回指摘したように、再生機器の解像度があがればあがるほど重ねられたヴォーカルのひとつひとつがクリアに浮かび上がってくる。まるでHikaruが何十人にも増えたみたいだ、とミサカは純粋にその魅力を指摘します。何のこっちゃ。兎に角、そのスケール感は聴き比べないとピンと来ないかもしれない。コーラスが「舞台にコーラス隊が居るかのような迫力で」迫ってくるのだ。人によっちゃあリアル過ぎると不気味に映るかもしれない。それは多重録音の宿命だけれど、48トラックとも言われる宇多田ヒカルのコーラスワークを隅々まで堪能したければ、やはりヴォーカルに特化した、中音域での分離がいい、低音がでしゃばらず、高音が繊細にしてしっかりと硬質なアクセントをつけられる、歌声の輪郭のハッキリする再生機器を選ぶべきだろうと思う。


いやしかし。Hikaruの音楽を堪能するにはそれだけでは飽き足りない。編曲家・宇多田ヒカルの匠の技もやはり隅から隅まで味わい尽くしたい。編曲家のクレジットがつくのは00年のリスク以降だが、奇跡とも言われるFDやその流れを汲む深い河、そして、EXODUSでの経験を存分に活かしたウルブルとハトステのアレンジメントは耳をそばだてずにはおられない。素晴らしい演出力を誇っている。

まずは何と言ってもリズムである。以前から指摘している通り、OpeningになくてCrossover Interludeには有るサウンドが編曲家Hikaruの個性であり、即ちそれは楽曲の骨格を形作る四つ打ちのリズムパターンである。これがしっかりと聞こえないと話にならない。

一方で勿論、ピアノや弦楽器の響きが優美でなければその神髄を味わえない。FDを愛で尽くすにはピアノと弦とコーラスのトライアングルの美しさを正調に捉えられる再生機器でなくてはいけない。即ち音場が広く、低音に広がりと深みがあって、高音が鳴り響き渡る空間の余裕のあるタイプが望ましい。中心にギュッと寄っているよりは、もっと音が響く"空間を感じさせる"タイプである。

そして勿論、多彩なシンセサイザーの音色の響きにも心を配る必要があるだろう。Hikaruが腕によりをかけて選び抜いた音色の数々は、既存の楽器のそれよりよりHikaruの個性が反映されているとみて間違いない。その音色の多くは柔らかくしなやかで、包み込むような優しさと素朴な芯の強さを兼ね備えている。ウルブルはその代表作である。あのアルバムにみられる"色とりどりの生物の舞い"を心ゆくまで観賞するには、音域に左右されずコンスタントかつクリアにひとつひとつの音を再生しつつ、鮮明さがどぎつくならない程度には柔らかな響きを湛えた再生機器が理想である。即ち鋭すぎず、鈍すぎず。ここらへんのバランスが難しい。


これらの諸条件を鑑みると…という話からまた次回っ。