無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

DNAは二重螺旋。

また拾いモノしてきたか。前も述べたように、モノを拾う感性はクリエイターにとって原初的に必要なものだ。人間は、特に年齢によらず社会性をもてば…つまり"社会人"になればなるほど、何かを手に入れる時は何かを差し出す、もっといえば、手に入れる為のマニュアルを遂行するようになる。お金を払う、というのがその最も普遍的な行為だが、それが第一次産業であっても、文字化してあるしてないに関わらず、チューリップを作る人はそのマニュアルがチューリップを作るものだと信じて行動を始めるし、マグロを釣りに行く人は、マグロを探すのだ。何かを得る為に、人や自然にこちらから"はたらきかける"のがモノを得る為の様式となっている。

"モノを拾う"というのは突き詰めれば、それとは真逆の様相をみせる。拾うからには落ちている。それは、人が価値無きものとして捨てたか、そもそも見向きもされなかったかしたものだ。はたらきかけられるのを諦められた存在なのだ。"拾う"というのはそこに価値を見いだす行為なのである。英語にあるように"Finding"、"見つける"事なのだ。

だからくまちゃんは光の拾ってきたものを"ゴミ"だと切って捨てるのである。あの二重螺旋枝の切れ端は、価値があると思った人間にだけ価値があるもので、そうでない人間にとっては徹頭徹尾そうではない。価値が出るかもしれないのは更に第三者があれを欲しがってその価値に社会性が出てきた時である。その時、たとえ自分は価値があるとは思わなくても例えば金銭を介する事によって自らにとって価値あるものへとすり替える方法もみえてくる、という訳だ。

これが、昔から続くクリエイターと商売人の構図である。音楽をはじめとした様々な文化的作品は、それに価値があると思える人間にとってしか価値はないが、その数が一定数を超えると商業として成立する可能性が出てくる。レコード会社やレーベルの代理人はそれによって、極一部の人間にとってしか価値がなかった作品やクリエイターに社会的価値を与える、という訳だ。

照實さんが今朝のツイートで訴えた危機感は、今の例でいうならば、クリエイターが最初の"拾いモノ"をしたときに隣に来て「それいいね!」と同調してくれる人がやってくる過程が手薄になり、その後の段階の「じゃあそんなに気に入る人が居るんだったら商売にしましょう」と人と人の交渉事にばかり関心のあるパートだけが分厚くなってしまった、という所から出てきているものだと思うのだ。まずは拾ったモノで一緒に盛り上がる。そこを大事にしないと新しい才能はなかなかな見いだせず、確立した価値にだけ注目があつまればそれは先細りになっていくしかない。事実、今の音楽業界はそうなっている。そうならない為にも、クリエイターの遺伝子を"Finding"できるような環境作りを、確立されたミュージシャン、マネジメント、レーベルが挑戦を続けていなかくては…とは必ずしもならないのが今の時代だと思うので次回はその辺の話から、かな。