無意識日記々

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作詞vs作曲

最初期のヒカルは、「日本語の作詞、特にメロディーへの乗せ方が斬新だ」と高く評価されていたが最近はそんな事はない。昔は苦し紛れに日本語本来の音節構造と相容れないメロディーとの組み合わせでもOKしていたのが、次第に技術的に長じるようになりどんどん日本語が自然に乗るようになった、即ちヒカルの作詞力は格段の進歩を遂げたのだがお陰で「歌詞が普通」と言われるようになってきたかな、と思う。イチローの守備と一緒で、技術が卓越してくると難しいボールも涼しい顔で難なく処理されてしまう為凄みが伝わらない。何とも勿体無い。

Goodbye Happinessではそれを逆手にとって、とまではいかないが、最初期の不可思議な日本語の乗せ方を敢えて取り入れてみた、という節がある。PVのつくりからも、この曲は過去と過程を圧倒的に肯定する物語である事は明白で、そのコンセプトを歌詞の面でも体現していたのだと思われる。

多分、さだまさしを聴いて「日本語とメロディーはどうあるべきか」を学んでいったのだと思う。Be My LastやPassionの頃の話。彼は、まるで喋りかけるように歌う。それはつまり、日本語特有のリズムやメロディーに合致するようなリズムとメロディーをよくよく知っているから出来る事なのだろう。喋る延長上で歌える。その為のメロディー、その為の歌詞。

これが卓越してくると、ヒカルの歌について、あまりにも歌詞が日本語として自然に耳に入ってくるもんだから、メロディーの美しさがしばしば忘れ去られてしまってる事もあるのではないか、というのがふと気がついた懸念である。裏を返せば、日本語として不自然にメロディーに乗った歌詞というのは、文章として飛び込んでこない、ただの意味を為さない羅列に近くなっていく。その分、そのメロディーの輪郭に人の耳は集中する。勿論そのメロディーが美しい事が前提だが、自然に耳に馴染む歌詞というのはメロディーにとって邪魔なのではないか。それは言い過ぎにしても、歌詞とメロディーは、どちらが聴き手の気を引く事が出来るか、常に鍔迫り合いをしているライバル関係にあるのかもしれない。

そう考えてみると、皮肉なものである。作詞がうまくなればなる程、作曲された音楽の印象が薄くなる。勿論、総体的には歌詞に魅力があるのなら楽曲の存在自体に関心を集める事は出来るのだが。例えば歌詞が弱ければメロディーの印象が強くなる、といった内部でのトレードオフは想定できる。

結局は、切磋琢磨かもしれない。作曲家ヒカルは、作詞家ヒカルが送り込んでくる歌詞に負けないメロディーを作ろうとする、作詞家ヒカルは、メロディーの強さを飛び越えて人の心に突き刺さる言葉を連ねていく。その相乗効果によって、歌の結晶はどこまでも成長し、磨き上げられていく。それが理想的である。いつもいつも「ヒカルのライバルになれる奴は居ないのか」と私は愚痴っているのだが、もしかしたらこの点に関しては、ヒカル自身がヒカルの最大のライバルなのだと、積極的な意味において言えるのかもしれない。それはそれで孤独なのかな。でもまぁ、いい歌が生まれるんだったら、いいんじゃないかなぁ。