無意識日記々

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みんなでニコニコ

なんだかKADOKAWADWANGOが合体するそうな。名前をKADOKAWANGOとかKADOKADOWANGOにしたい衝動にはかられなかったのだろうかと最初に頭をよぎったがそういう事でもないのかな。今季はデートアライブを放送していなかったりしたのでKADOKAWA本体とは寧ろ距離が出てたんじゃないかと思っていたが違ったみたい。

NHK受信料はラジオ受信料のつもりで払っている(ルール的にはラジオ受信機の所持は受信料支払の対象にはならない)私だが、ニコニコ動画のプレミアム会員である。テレビより遥かに使用頻度が高いので月額540円は安いもんなのだが、使えば使う程、これは日本固有のシステムかもなぁ、とほんのり思う。

段幕を右から左に流す、という画期的な手法はニコニコがまぁ発端と言ってよいと思うが、果たしてこれが日本以外の国で受けるかどうかはわからない。日本人の言語的精神構造上、「世間の空気」を直接感じ取れる機能がマッチしたのは間違いがないと思われる。個々人が楽しむより共有やシェアを重視する風潮。ひとりぼっちネタにツッコミを入れる時に一斉に皆が「おいやめろ」段幕を放つのをみて、それさえも共有の為のネタなんだなぁと感心せざるを得ない。

昨日NHKFMを聴いていたら昨年メジャーデビューした「それでも世界が続くなら」というバンドのブレインさんが出ていた。そのサウンドは、そういった「孤独の共有」を、(ニコニコとは正反対に)シリアスに真正面から捉える歌詞をフィーチャーしたロックで、「そういえば歌にはそういう"機能"があったよなぁ」と思い出させられた。今はSNS等が発達し過ぎて、瞬く間に「ひとりぼっちクラスタ」が出来上がる。それを掬い取る為には2ちゃんねるの匿名性などは見事なものだったなぁと今更ながらに嘆息する。

そういった歌の"機能"に最も忠実だったのが長年の宇多田ヒカルであった事に異論を挟むのは難しい。特に、時代は流れ、本人が"大家族と結婚"するというからには、その色合いは決定的に変わる。案外、どちらに変わるかはわからない。よりその色を深めるかもしれず予断は難しいのだが、例えばコーラス・パートにヒカル以外の声が"混じって"きたりすればそれはわかりやすい変化として捉えられるだろう。大家族に囲まれている感覚の中で作る歌がどのようになるかはまさにこれからの事なので(カトリックだと式挙げるまで同棲しねーんじゃねーの?)、ヒカル自身もわからないかもしれない。みんなで、楽しみに待っていよう。みんなで…。