無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

High Hopes

今にも筆が止まりそうな一週間だったが、何とか一回も飛ばさずにここまで来れた。踏ん張ってるな〜と自分では思う。周りからみたらいつも通りかもしれないけれど。

自分でも何をやっているのかよくわからない。今週は疲れた。それがいちばんの感想だ。つくづく、幾つものチャンネルを持っている事が大事だなと思う。矛はひとつあればいい。しかし盾は何枚あってもいい。躱したり翻したりいなしたり壊したり。幾らあっても足りない。総てを打ち破られたら終わりなのだから。

先週の今頃は、多分ここを書き始めてから初めて、ヒカルの話題はしなくていいか、と思っていた時間帯だった。駆け込み乗車ネタとか一体何だったんだろう。

ミュージシャンやアイドルとファン、というのは不思議な関係だ。ライブで実物をお互い遠まきに(或いはうんと近くで)観た事はあるとはいえそれは「会った事がある」のとは違うし、時間としてもお互い特殊な心持ちである。シンプルに、普通に知り合った知り合いではないのだ。

そういう関係性だから、メッセージは非常に重要な役割を果たす。実際に会った時の実在性は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と総てのチャンネルが開かれ、何より行って帰って(言って返って)くる「対話」が成り立つ。その相互作用の有無は大きい。

宇多田ヒカルとそのファンにとって、Webに踊る言葉はそのまま両者の関係性のアイデンティティである。顔も見えない、声も聞こえない状態でその人がその人であると認識する為には、言葉に"その人らしさ"がないといけない。非Web世界でその人に"らしさ"を要求し過ぎるのはいただけないが、残念ながらWebではそうはいかない。発する言葉と受け取って返す言葉同士の中から"その人"を見いださなければならない。そこまで来て初めて、"おはよう"や"おやすみ"などの「挨拶の言葉」が意味を持つ。逆に、そこまでやらないと、非Webに見られるような"極普通の人間関係"が、Webに於いては築けない。つまり、築ければ大したもんだ。

だから私にとって、@utadahikaruのツイートは常に@utadahikaruらしくあってもらわないと、Hikaruの存在をそこに感じられないのだ。普段の何気ない、何の変哲もない呟きも、アタマに@utadahikaruとつくだけで無性に嬉しくなる、そう思えるまでに築き上げた関係性を、なし崩しに出来るのもまた同じ言葉だ。人間関係としてはとても奇妙、しかし、それが21世紀の、神千年紀の人と人の新しい在り方なのだ。20世紀の有名人たちを巻き込んで、世界は続々とフラット化する。そんな中で、"中の人"を疑われない為の工夫は、自然に為されねばならない。


やっぱり、難しい。この傷は古傷として一生残る。どうやって忘れたものか。そればかり考えている。出来れば、そうしたい。でも、それって、思い出も共に見捨てる事になりはしないか。道連れない保証は、どこにある。私には、わからない。