無意識日記々

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でもなパート2

そういやブラックマヨネーズは今でも「でもなぁ」のネタをやってるのね。お正月のザッピング中に通り過ぎた気がする。漫才で自ら開発した「型」があると強い。笑い飯の「俺がやる」やハマカーンの「ゲスの極み鬼畜の所行」なんかもいいねぇ。

しかし、そうね、例えばM1グランプリで3組による決定戦に進出した時、もう1つ違うネタの漫才をやる訳だが、1本目と同じ「型」を用いながら、思い切りウケて優勝するケースと、何故か全然ウケなくてダダ滑りするケースと、二つある。何故だろう。

答は結構単純で、それは一回目のネタのウケ方の違いである。新味のある「型」に出会った驚きでウケた場合は二回目はウケない。その「型」はさっき見たばかりだから。「型」に嵌めてはあるものの、結局は言ってる事が面白くてウケた場合は二回目もウケる。それだけの違いである。

それだけなのだが、その違いの自覚を持続するのは大変に難しい。やっているうちに「型」だけが残る場合もある。それはそれで現象としては面白いのだが、理想を言えば、「型」はあクマで面白い会話を導き出す為のキッカケ、下地、踏み台に過ぎず、便利だから使っているだけ、という態度に終始できればいい。しかし、人は往々にして周囲の言説に惑わされ、その有名になった「型」の死守に向かう。一言でいえば形骸化である。死だ。


音楽も同じ事がいえる。特に、ある一定の音楽性で名を成したアーティストであればあるほどファンはその「型」を求める。既に誤謬なのだがこれをすれば期待に応えられるとわかりきっているのにそれに抗うのはプレッシャー化では非常に、大変に難しい。永遠のジレンマかもしれない。さっきからいろいろと具体名を出したくなっているがじっとガマン、ガマン。

ヒカルの場合その「型」が無いからもうずっと中身だけで勝負している。よくもつなぁ、というのが正直な感想だ。人間そこまで強くない。「型」がないと、はてさてどこから始めればよいのかすらわからない。ただひたすらメロディーが天から降ってくるのを待ち続けるだけなのか。〆切に間に合わないよ。

これからもずっと、型に嵌る事なく、それでいて魅力的なメロディーを生み続けてくれるのだろうか。いやはや。

「型」というのとは少し違う(本質的には同じだが)かもしれないが、ライブでFirst Love歌っときゃウケるだろとわかりきっているのもまた心理的には重圧だ。新しい境地にチャレンジしたってウケるかどうかわからない、でもFirst Loveを歌っておけば私は安泰なんだ、という誘惑にヒカルは、勝てちゃうんだな。寧ろ誇らしい、みんなが喜んでくれるなら歌うよ!とアッサリ言えてしまう。それに寄りかかるようなタイプの心の弱さを持っていないからだ。悪くない。嗚呼、悪くないさ。



でもなぁ、と思う。それはそれで、何か音楽的な「型」をひとつ持っていてくれても面白いなとも思うのさ。型に嵌らない名曲を生み出す一方で型に嵌った名曲も生み出す。テイク5も書けばPrisoner Of Loveも書くよなスタンスだ。あらもう既に実行出来ているか。しかし、それを継続できたらまたカッコいい。定番の宇多田ヒカルと非定番の宇多田ヒカル、どちらも新しいメロディーを生み出す。最高である。いちばんの高望みかもしれないが、ヒカルならやってくれるんじゃないかとついつい思ってしまう。少しずつ期待を積み重ねていく事にしよう。