無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

"まだ知らない"という大切な時間

花束を君に』と言われて、広がったイメージは人それぞれだろう。ひとりひとり、ヒカルに抱く感情は少しずつ違うからだ。ここでは素直に、私がどう感じたかを記しておく。

「幸せに慣れてねぇなぁ。」―最初の感想はこれだった。『幸せだとか不幸だとか基本的に間違ったコンセプト』と昔歌った人が今、慣れない幸せを満喫している。たぶん、まだ「私は幸せで当然」と思えないのかもしれない。だからどこか浮ついている。そこが愛おしい。

本当に常日頃から幸せを感じている人はこうはならない。やっぱり、息子が生まれた事が大きいように思う。そういう予感はしないが、論理的にはここで『花束を君に』の『君』は息子の事かなとなる。娘なら兎も角、男の子に花束って喜んで貰えるかわからないが。でも、そんな事言う時代でもないかもしれないな。

ちょっと浮ついているが、これは紛れもなく現実である。ロマンチック&ハートフル。まずはそれが私の思い描く『花束を君に』の曲調である。Lettersをスロウ&メロウにして転調したような。左様、もうきっとどこもLettersに似ていないよな。

ではどこが、と言われると、そう、まずは歌詞だよね。

『両手に空を』『胸に嵐を』『君にお別れを』『花に名前を』『星に願いを』『私にあなたを』『夢に続きを』『君に「おかえり」を』からの『花束を君に』。どう?(どうと言われましても…)

Lettersの歌詞は斯様に『AにBを』で構成されている。この『にを』の順番の含意は、「これはこうあるべきだ」とか「これはこうあるのが自然だ」とかの、「事実としての取り合わせ」が前提にあって、そこに自分の願いを込めるという順序だった。しかし、『花束を君に』、「BをAに」というのは意志の問題である。運命に翻弄されながらも自らのあるべき場所を探し続けていた10代の頃とは違う。今のヒカルは「こう生きる」という意志が最初にある。「AにBを」と「BをAに」は日本語の規則からすれば交換可能な、意味の同じ文章に見えてまるで違うのだ。こどもを生んだ今、目一杯自分の人生を肯定する。つまりこれは、Goodbye Happinessの続きでもあるのだろう。生まれ変わってもまたこの人生を歩みたいと思える程今の人生を愛している。だから、愛していく、という意志を『花束を君に』というタイトルから感じている。Lettersと同じ美意識に包まれながら、かなり人生に踏み込んだ内容だ。

ただ、ちょっとまだ浮ついているのは気にかかる。ロマンティック過ぎて、ちょっとこれはという人も在るかもしれない。コーヒーよりココアやミロ(懐かしい!)のような。でもそれもいいかもね。嗚呼、じゃあこの曲が『差し入れカプチーノ』なのかな。時期的にちょっと早過ぎる気もするが、そうかもしれない。まぁそこはヒカルの言葉を待とう。


人によって違うだろう、『花束を君に』の解釈は。私の今話したのはただの「第一印象」であって、書き方はめんどくさいが基本はインスピレーションだ。そこから様々な考察を孕ませながら、今私の中でパラレルに様々な『花束を君に』が成長している。実際に曲を聴いてそれが単一の像に結実するまで暫しの間、この「まだ知らない」という二度と来ない状態を堪能し尽くしたいと思います。いい曲だよホント。もう、間違いないから。