無意識日記々

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冗句を知り明日に備える日々は是

シリアスとジョークのせめぎ合いは本質的な乖離を含んでいる。自己の芸風を批判的に捉えれた方が成長を促すからだ。米津が体育に凌がれるのも本質的な乖離に基づいたものに過ぎない。結局シリアスはいつも怒ってたり嘆いていたりする。

ヒカルはその本質的な乖離を壊した。ジョークを介在させずにクォリティーの頂点に立ったのだ。それは特殊な生態系の出現である。ミュージシャンたちやジャーナリストたちに愛されているのも、シリアスな取り組みが報われるモデルケースとなったからだ。カリカチュアライズし過ぎて自嘲の域にまで達する事態から救ってくれた。語る手書く手に熱を帯びるのも当然の事だった。

昨年の『Fantome』への、送り手側たちの異様なまでの肩入れにはそういう背景があった。邦楽市場に対するシリアスなアティテュードが報われる瞬間。ただでさえこの10年、CDの売上の数字が秋元康によってギャグの領域に追い込まれ更にそれを「ビジネスだから」「資本主義だもん」とシリアスの偽装まで見せられて忸怩たる思いで来ていたのだ。"シリアスの復権"の象徴として最強の存在が6年半ぶりにシーンに帰ってくるとなっては力が入らない筈もなかったのだ。そして『Fantome』は結果を出した。

ヒカルは母と向き合っているうちはシリアスにならざるを得ない。「運命は斯くも過酷か」と言わざるを得ないが『You are every song』と歌ってしまった以上、歌えばそれは母になってしまうのである。

しかしこどもが出来た事で事態は一変するかもしれない。何も出来ない存在との幸せの日々は、笑顔に包まれているかもしれないからだ。物事がうまくいかなくても「あらあら困った子ねぇ」と笑顔で対処できているうちは幸せであって、とても冗談の通じる空間である。

ぼくはくま』は童謡ではあるが冗談ではない。一時的とはいえ作者自らが『最高傑作』との冠を与えた存在感は伊達ではない。ひとえにそれは『ママ』の一声に集約されるのだが、R&Bの歌姫とか何とか持て囃された存在がこども向けの童謡を歌う姿は、シリアスにシーンと向き合ってきた業界人たちからすればギャグである。ジョークか何かか? ヒカルは全くそんな風に捉えていなかった。冗談や気の迷いで2万通以上の塗り絵の審査に自ら乗り出せるとは思えない。ある意味シリアスの極致、それは『Prisoner Of Love』から『テイク5』へと、自らのアイデンティティを賭した楽曲のアウトロをカットアウトした更にその先にある存在だったのだから。

まぁヒカルはアルバム『HEART STATION』の曲順決めに関わっていないのだが。

その乖離の象徴もまた『ママ』であるのなら、信じてついてきた方は自嘲するか飛び込んで一緒に『ぼくはくま』を歌うしかない。歌ってしまえば問題ない。ただ、そこまで行ってしまうと最早冗談の入り込む余地はどこにもない。

こんな芸当が出来るのも、ヒカルの自己批判能力が異様に強いせいである。自らを批評や諧謔の対象にする為に冗句を駆使する必要もなかった。その願意についてはまた稿を改めて。できれば『あなた』をフルコーラス聴いてから続き書きたいんだけどいつになるやらだね。