無意識日記々

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言ったもん勝ちの世界

インターネットの時代になって、一昔前は表立って書かなかったようなネガティブな発信が可視化されるようになった。日本でいえば2ちゃんねる(現5ちゃんねる、でいいのかな?)なんかは最初「便所の落書き」みたいな扱いで、匿名だし皆吐き出すように書いてんな、という印象だったのだ。可視化されているとはいえ、初期はまだ"場所を弁えていた"というべきか。

時は流れ、日本人の大半がスマートフォンでインターネットを利用するようになった昨今、「便所の落書き」でしか見られなかったような物言いがそこらじゅうで見られるようになった。まとめブログが端緒だったのかもしれないが、ヤフトピのコメント欄とかアクセス数を考えたらゾッとするね。

SNSの中でも、Twitterは匿名性がそれなりに高い(捨てアカが作りやすい)ギリギリそういった物言いが溢れるのも理解できるのだが、Facebookで本名で顔写真を載せた上で便所の落書きみたいな事を書く人が沢山居るのには驚いた。正直ドン引きした。所属している組織の評判がた落ちだろうなぁ、と。

しかし、BrExitトランプ大統領のお陰で「日本だけじゃなかった」「てか日本まだマシだった」となったのは何だか時代の遷移のスピードを感じざるを得なかった。本来愚痴として飲み屋やら裏口やらで消費されてきた言葉たちが大手を振って歩いている。それが世界的現象なんだと。

そして次の世代は、いつものように誤解する。「ああいった言い方は日陰でしたもんだ」なんていう言葉が届く間もなく若い子たちはそこに書いてあって目に見えるものを「そうなんだ」といって鵜呑みにしていく。それが次世代の常識になるのだから恐ろしい。斯くして、世代の間の食い違いはより酷くなっていく。

インターネットの世紀では、憚っていては負けである。次世代に向けて、声高に何度も「我々の世代の常識」を、当たり前の事を発して伝えていかなければならない。でなくば次世代は理解不能な種族となるだろう。

しかし、常識とか当たり前とかってのは「わざわざ言う必要がない」事に価値がある。それを前提とした所から話を始められる安定感と安心感、手際の良さ、居心地の良さ。それを得た人間たちが、日々の生活でわざわざその常識や当たり前を口に出したり書き下したりなんてしないのだ。しかし、次世代にはそれでは伝わらない。「見て盗め」とか無策にも程がある。

インターネットでは声の大きい方が勝つ。露出が多く接触機会が豊富な方の思想が浸透する。思想の中身なんて吟味されない。言ったもん勝ちなのだ。そうやって誰も思想を批判的に評価しなくなっていった挙げ句の"平民"の怖い事怖い事。いつも為政者や軍部の人間が槍玉にあげられるが、結局"空気を作った最大多数"の意見が通るのだ。1人々々の構成要員は自らが超権力であるという自覚に辿り着かない。しかし集合すればもうそれはそれは恐ろしい程の力をもつ。

建て前を重視して成長していた社会はいい方向に向かっていた。次世代が"かっこつけた建て前"を鵜呑みにして時代を駆け抜けたからだ。今はどこにも本音が転がっていてその殆どが醜い。その醜さが社会だと思わされて育つのは気の毒と言わざるを得ない。

なので何とか綺麗な建て前を飾り立てて日記を書きたい処なんだが、無理だわ。私も同罪なんだな。あわよくば、本音も建て前も超えて人の心に残る言葉を置いていきたいのに。