無意識日記々

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「聴衆の音楽は続いている。」

記憶の本質は複雑な構造にあるのではない。高度に組織化された神経系や高密度の半導体素子などを思い浮かべがちだが、それは単なる圧縮されたコピーに過ぎない。コピーでよければ、遺伝子は常に記憶であり、もっといえば素粒子素粒子であり続けるならばそれ自体が過去の記憶である。そして、それでいい。

複雑な神経系は寧ろ規模の話だ。コピーを増やせば増やすほど容量が必要になる。究極的にはそれだけであり、記憶の本質の片側を構成する。

真に神秘なのは世界が無矛盾な事であり、故に大容量なコピーは記憶として再構成され得る。まず世界が在って、片方に知る者が要る。

この不均衡或いは不美から、我々は必要な知見に辿り着いていない事を知る。複製とはそれを複製を見なすものがなければ複製にならない。しかし、その分断された世界観には限界があり、内側へ閉じろと命令が下る。最初から在る世界と知る意識が一体となった"真世界"を見いださなければならない。

とするとそれを知れるのかという問題になるが、これは多分楽観的になった方が勝ちである。知り得ぬもの、語り得ぬものに対して沈黙を守っても訪れるものは沈黙でしかない。嘘でもいいから語ってみるがいい。知れずとも、当たれば勝手に育つのだから。

しかし今は分断された世界に生きる事にしよう。我々はひとつの音を聴き、もうひとつの音を聴く。記憶は、どこまで必要だろうか。

長い曲で終局部、冒頭の主題に戻る時、我々は結局主題を忘れていれば戻ってきた事に気がつかない。よって作者の意図は汲み上げきれない。

しかし、そこまで意図的なのだろうか。終局部における主題の再提示は誰にどんな効果をもたらすのか。

もっと短い感覚でみれば、メロディー自体が記憶の産物である。今鳴った音と次に鳴った音が"一連なり"である事をどう知るのか。同じ楽器、同じ演奏者だから? 1音々々別の楽器であらゆる場所から音を出しても、我々はそれをメロディーであると感づく。或いは、そう解釈する。過去に起こった出来事とその後に起こった記憶を結びつけなければ音楽はそこにない。

であるならば、音楽はいつどこで終わるのだろうか。人は忘れる。それにも程度の問題があって、聞けば思い出す、聴いた事がある、そして、「いや、初めて聴いた」と言い張るものまで様々だ。

楽家は聴衆が過去の作品にこだわり過ぎる事についてしばしば不平を言う。クリエーターは元来飽きっぽく新しいモノ好きなのだ。しかし、聴衆の音楽は続いている。終わっていないから期待が生まれ待望が現れる。記憶を継いでいるのだ。

過去が増えれば増えるほど、忘れられない記憶が募れば募るほど、帰るべき主題は増える。交響曲のようにいつも第4楽章を奏でられるとは限らない。ただひたすらに、人の記憶の注ぎ口に働きかけ続けるだけなのだ。知っているも知らなかったもまたその時の話なのである。