『Mine or Yours』というタイトルの解釈を、もうひとつ。
これは、通常は「選択肢の羅列」と捉えられている。あなたが選ぶのはAかBか?だ。コーヒーなのか緑茶なのか?とね。
だが、「選ぶこと」それ自体が俎上に乗っている場合も考えられる。つまり、「この選択(という行為自体)は、私のものだったのか? それとも、あなたのものだったのか?」という訊き方である。少し言葉を変えれば
「この決断(decision)をしたのは私?あなた?」
という風になるかな。それが今回のタイトルだね。
「AかBか好きな方を選ぶ」というのは、事前に「どちらも選べる」自由が必要だ。選ぼうにも選べない選択肢は選択肢ではない。当たり前のことだが、人権の保障されていない時代や地域ではそれが当たり前ではなかったのだ。「お前の結婚相手はこの人だ」とか、親やら親族やらが決めてくるんだものね。結婚相手も選ばせて貰えない。「この人を選んじゃダメ」ところか、そもそも「選ぶ」という行為自体に対する権利権限がなかったのだ。選ぶ以前の問題なのだが、それこそが本来の不自由だった。
「選ぶ」という言葉で思い出すのが、2009年の「点」の序文にヒカルが書いた「私はその子を親友に選んだ」の一文だ。当時は「親友なんて自然にそうなる関係で、わざわざ選ぶとかしないのでは?」とか「なんだか偉そうだな」とか、色々と違和感が表明されたものだったが、これは選択の決断に責任をもつヒカルらしい物言いだったと私は考える。これにより、恐らく2人は確固たる関係性を築けたのだ。そりゃ『Making Love』なんていう素敵な楽曲(と過激なタイトル)が生まれるはずだよね。一蓮托生だもんね。
この「敢えて選ぶ」という行為。『Mine or Yours』に仮にヒカルの実体験が込められているのならば、「責任をもって選択をして貰えなかった」こと自体が道を分かつきっかけになっていた可能性もあるかなと。コーヒーでも緑茶でも、どっちを選ぶのでも構わないよ、でもね、あなたという人間の価値観とそれに伴う責任をはっきりさせた上でしっかり選んでよね!という期待に対して『僕』は応えることができなかった…そんな風な背景があったのかもしれない。だとすると歌の最初の部分、
『昨日の僕は
僕が思う僕とはかけ離れていた
素直になれず君を泣かせるやつには
失望している』
の歌詞の意図が浮かび上がってくる。『僕』が『僕』の確固たる価値観に従ったもの“ではない”言動で『君を泣かせ』たのだから、選択肢を誤ったというよりは、選択の仕方自体を見誤ったと考えた方がいい。ちゃんと言葉を選ばなかったのだ。だから『自分を大事に』しなきゃいけないのだと。責任ある選択をできる自分で居続けなきゃいけないのだと。
それ故に、ヒカルは昔親友を『選んだ』のだ。ただ流れでなんとなぁくそうなったのではなく、自分の価値観や意志に従って、お互いの人生に責任を持つ親友同士でありたいと。でないと
『もしもお金に困ったら
できる範囲内で手を貸すよ
私たちの仲は変わらない』
だなんて『Making Love』の歌詞が、出てくるはずないもんね。流れで親友になったのではなく、揺るぎないものをベースにしてるから、お金が絡んでも大丈夫なんだね。
、、、だなんて思ってたら『Mine or Yours』の
『I love MAKING LOVE to you 〜♪』
って歌詞が流れてきてさ。「あれ?これヒカルも『ULTRA BLUE』の『Making Love』を意識して『Mine or Yours』の歌詞を書いたのか!?」と一瞬思ったのだけど、流石にこれはどうなんでしょうね?? それを決めるのもまた、聴いてる私やあなた自身なのでありましょう。