無意識日記々

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不憫かなにか?


『Electricity』、不憫コースに乗ってない? 大丈夫?


『何色でもない花』のスマッシュヒットぶりを全く予測できなかった私が今更何を言っても説得力がないのだけど、『Electricity』って、少なくとも『One Last Kiss』と同じくらいはヒットしてないとマズくない? めっちゃ凄い曲じゃね?


前も書いたけどその時と変わりなく、アテクシ『SCIENCE FICTION』を気に入り過ぎてしまって未だに『Electricity』をヘビロテしていない。てかまだ『SCIENCE FICTION』をシャッフルで聴いたことがなく、ひたすら中毒からマルセイユまで曲順通りにリピートし続けている。いつまで経っても、だから、『Electricity』は“アルバム曲”のままだ。


が、そんな風に全く特別扱いしていないにも関わらず、SFを一通り聴いた後圧倒的に印象に残っているのが『Electricity』なのだ。そりゃラス前だから記憶も新しいだろうと言われたらそれまでなんだけど、毎日朝起きて夜寝るまでの間、どこかで脳が休もうとすると途端に「エ・エ・エ・エ・レ・エ・エ・エク」という声が脳内にこだまする。完全に中毒じゃん!って思ってるうちにまたSFをリピートしてElectricityに辿り着きマルセイユを経由して『Addicted To You (Re-Recording)』、中毒に戻ってくるのだからよく出来てるなぁと他人事のように感心してしまう。そしてまたまたリピートが繰り返される。嗚呼、これもワームホールみたいなもんなのね。宇宙のトポロジーですね。(なんのこっちゃ)


この、気に入ってるか入ってないか以前に脳内にこびりついて離れない感覚、大ヒット曲の特徴でしょーに!? でも、『Electricity』、最新曲の割には影が薄いよね。伊藤忠綾鷹ほど出張ってないからなのだけど。あとMVないからね。これもなんだかんだで痛い。なのでついつい不遇とか不憫とか考えてしまう。ほんに、勿体無いなぁ。


でも、(SFでは)お隣のマルセイユだって粘りに粘った感あるよね。最初にリリースされたの22年1月だもんね。そこから八景島でビデオ作ってSpotifyで流してYouTubeで流して今回エディット作ってビデオも再編集して…それでようやっと今月ラジオのチャートなんかにも入ってきて。粘ってみるもんなのよ。


なので、『Electricity』はここから思いっ切り粘って欲しい。ヒットポテンシャルは過去最大…というのは、「日本語圏以外も考えた時」の話でさ。『Come Back To Me』以来のヒットになると思うけどねぇ。まぁツアーがアジアに留まったから、もっと長期に考えなくちゃいけないやつかもしれんけど。英語バージョン作ったり、エクステンデッド・ミックス作ったりアナログ出したり、そして勿論ミュージック・ビデオも作ったり…頑張りようは幾らでもある。


今回、綾鷹トラベに全部持ってかれたからなぁ。YouTubeみてみると、綾鷹トラベの再生回数が234万回で、『Electricity』のオーディオ・トラックが33万回か…まぁその数字は比較できるもんじゃないけど、それにしても、ねぇ?


こんな変わった“自滅”も珍しいんじゃない? 余りにもいろいろ充実し過ぎていて、最新曲に向けられるべき関心が分散されてしまってるって。あたし自身がそうなっているのだから言えた義理は微塵もないのだけどね。なのでここは頭を切り替えて、『Electricity』には長期戦を睨んでツアーを迎えて欲しいと、思ってます。ももももちろん、ステージで歌ってくれるのよね?? U-NEXTでの配信が決まったから、チケット落選しても観れるぞ! ちょっと一安心ですね。

"不適切な"歌詞たち


そういやこの度「NHK MUSIC SPECIAL」にて、ヒカルの『光』がテレビ初披露だったわけだけど、これNHKだったからできたということなのかな。なぜって歌詞に


『テレビ消して

 私の事だけを見ていてよ』


って出てくるんだもんねぇ。テレビ放送でテレビを消せと?? いや、日本のテレビ放送を代表するNHKだからこそ寧ろ気にしないといけないのか?? 他のこういう歌詞の歌はどうしてんだろね。そんなものがあるのかは知らないが。


逆に『Kiss & Cry』はNHKでは歌わないだろう…『今日は日清カップヌードル』って歌うからな。スポンサー色が強過ぎる。まぁそれを言うなら同曲はライブ・バージョンでは一旦不適切だとボツにした


『娘さんのリストカット


をしっかりと歌ってるね。これはラジオで流すのすら憚られたってことでしょうか。


優しく思いやりのある人柄として認識されている宇多田ヒカルさんだが、だからといって別に品行方正な方でもなくて。『BADモード』では


『Hope I don't fuck it up

 Hope I don't fuck it up again』


と歌った為Apple Music Radioではバッチリ消されて放送されていた。今回のSFでもこの曲のクレジットにはバッチリ[E]の字が刻印されている。この[E]はexplicit lyricsのことで、意味は


「《音楽》エクスプリシット・リリックス◆性的または暴力的な表現などが含まれているポピュラー・ソングの歌詞。」

https://eow.alc.co.jp/search?q=explicit+lyric


ということだそうで。一言で言えば「R指定な歌詞」って事ですね。



という風に結構危なっかしい歌詞がある宇多田ヒカルさんですが、最新曲である『Electricity』の


『そんな人類みんなに

 アインシュタインが娘に宛てた手紙

 読んでほしい』


という歌詞もまた、将来的にヤバい可能性がある。まだ現代では議論の俎上に乗っていないが、今後「電子情報に於けるフェイクニュースの拡散」に法的措置が取られる可能性があるからだ。「歌詞やん?」と誰しも思うところだが、いつの時代も規制派は政治的な存在なので、現実と虚構の区別とか実際に被害に遭ってる人の救済とかは興味がない。歌の歌詞だろうと対象になる可能性は十分にある。なので、まぁここの読者さんには馬の耳に念仏かもですが、こういう将来的に危なっかしい歌詞の歌はサブスクで済ませずにCDを購入しておきましょうねということでひとつ。って、通常盤でも4500円、ダウンロード購入でも3000円近くするのか…なかなかに悩ましいお値段ですねぇ。「タワレコ撮影させてもろたからご祝儀がわりに一枚追加。」とかやってる私は、自分の異常性に自覚的であるべきですね…。(話のまとめ方がおかしい(笑))

相貌の層


ヒカルさんの顔面というのは相当に不思議だ。今までの拙い私の人生経験から導き出してみるに、人の顔面てのは、年月を経るに従い大体一定の方向に少しずつ変化するものなのだ。まぁ大人になるとか老けるとかいろいろあるんだけど、何かひとつ大きな出来事があってそれ以降顔つきが変わるとか、そういうのは一生に一度とか二度とか、とにかくレアなもの…なのだと思っていたのだが。


宇多田ヒカルの顔面は、そんなこちらの“常識観”などどこ吹く風、遠慮なくごく短期間でコロコロ変わる。更に、変わり方の振り幅が尋常じゃない。前に「創作時の狐顔と人と会い始めた時の狸顔」なんて話もしたっけね。曲を作ってる時は怒りっぱなしで、人と会う時は笑顔を心がけているから、それぞれ吊り目と垂れ目になる。その振幅だけでも稀有なのに、時期によって最早違う人かというらいに作る表情が違う。というか性格からして違う。Music Talks '98の時のクソ生意気なバイリンギャルガキンチョムーブと、2003年の新婚ホヤホヤのえびす顔の間、僅か5年である。あんなん完全に別人やん。しかもその間にメイクを変えたり体重の増減やら髪型の変化やらまで加わって惑わせてくれるものだから本当に始末に負えない。


それが25年続いてきた。途中5年半ほど欠けているけど、どちらにせよその時々で顔面がバラバラなのであんまり関係がない。なかなかないそういう機会もないが、たとえ見たことのないヒカルの写真を今目の前に提示されたとしても、何歳頃のヒカルなのかわかる可能性が結構高い。加齢による漸進的な変化ではなく、その時々に独立に独特なのだ。


なので、ヒカルは基本的に、その時々にしかみられない表情を刹那々々に示してきていて、もうその頃の顔面には戻らないのだと思っていた。独立に独特な上に、どこかの時点に舞い戻るということもまたなかったからだ。


が、今回『SCIENCE FICTION』を制作しそれに関連する取材を受けたり番組に出たりする中で、ヒカルが過去の自分を振り返る機会を得た。これが結構レアで…ってそうなのよね、「初のベスト・アルバム発売」と銘打ってるんだもんね、そう、今までにないことだったのだ過去の自分を振り返るって。なので殆ど初めて聴いた&観たのですよ、「今のヒカルが昔のヒカルを真似をする」という行為を!


まずはラジオで、2000年頃の喋りを再現してみせていた。うわ、結構あの頃に似てる! 次にテレビでもあの頃の喋りを再現してみせた。うわ、びっくり! その頃の表情、今でも出来るんじゃん!


そうなのだ、顔つきが、表情筋のつき方が変わっても、ちゃんと昔の「表情の作り方」を身体が覚えているというか。まんまちゃんとなれるんだな、別の年齢のヒカルに。今41歳のヒカルが。そう、『Passion』発売時のインタビューに準えるなら、


「41歳の宇多田ヒカルの中には、31歳の宇多田ヒカルも、21歳の宇多田ヒカルも、ここに居る。」


ということなのだ。それをこうして視覚的に確認できたのが無性に嬉しくってね。人としての成長と変化、立場の変遷によって、昔のような無邪気だったり幸せいっぱいだったりという幼気な表情にはもうならないのかなと思ってたけど、今でもそういう感情と表情筋の神経はヒカルの中でしっかり健在なのだった。うむ、ぶっちゃけ、常に次の新曲が待ち遠しい我が身にとって、今回の「過去を振り返る雰囲気」を味わう中で、最も嬉しい出来事…確認作業だったかもしれない。そっか、41歳の宇多田ヒカルの中には40歳のヒカルも39歳のヒカルも38歳のヒカルも37歳のヒカルも36歳のヒカルも35歳のヒカルも34歳のヒカルも33歳のヒカルも32歳のヒカルも31歳のヒカルも30歳のヒカルも29歳のヒカルも28歳のヒカルも27歳のヒカルも26歳のヒカルも25歳のヒカルも24歳のヒカルも23歳のヒカルも22歳のヒカルも21歳のヒカルも20歳のヒカルも19歳のヒカルも18歳のヒカルも17歳のヒカルも16歳のヒカルも15歳のヒカルも14歳のヒカルも13歳のヒカルも12歳のヒカルも11歳のヒカルも10歳のヒカルも9歳のヒカルも8歳のヒカルも7歳のヒカルも6歳のヒカルも5歳のヒカルも4歳のヒカルも3歳のヒカルも2歳のヒカルも1歳のヒカルも0歳のヒカルも生まれる前のヒカルも、みんなみんなみんなみんな、ちゃんとそこに居るんだね。あー嬉しい。そして42歳以上のヒカルもまたそこに居るのだから、頼もしいなぁもう。




追伸:書きながら各年齢のヒカルがフラッシュバックしてきていちいちじぃんとしてしまった。3歳のヒカルとか、知らないけどね。

焦りまくるヒカルママの姿が目に浮かんだわ


今回明らかになった事実の中で殊更強力だったのが、「ダヌくんは、ママの離婚歴が2回あるのを知らなかった」話ではなかろうか。


どうやら、ヒカルママの口ぶりからするに、ダヌくんの「どうしてうちはママとパパが別々に暮らしているのか」という素朴な疑問に対して、かなりシリアスに返答している模様。何歳くらいの幼さで初めて話したかはわからないが、結婚と離婚という概念から諭さないといけないとすると、慎重になるのも無理からざるところ。まぁそこまではいいとして。


ところが、どうやらかなり呆気なくヒカルママは自身の離婚遍歴をポロリと溢してしまったようで。恐らくダヌくんも時折会うパパとの関係性から離婚というものを実感に落とし込んでいただろうところ、いきなり見知らぬおっさんご登場である。ちょっと恐怖に似た感情も生まれたかもしれない。何しろその1回目の結婚と離婚の事実自体を知らなかったのだからその瞬間には「もしかしたら生き別れの兄姉がいる…?」とか想像をはたらかせてても何ら不思議ではない。小さい子でも童話やアニメでそういうのは学習してたりするからね。いやはや、なかなかにショッキングではあるまいか。


そこからのヒカルママによるダヌくんへのメンタルケアは大変な苦労があったのではないかと推察される。ヒカル自身は「身から出た錆」と思ってたかもしれんがね。やれやれ、その次にキコパパと会った時にダヌくん、どんな顔をしていたのやら。


そんな家庭の事情に踏み込むつもりはもちろんなくて(既に大概話題にしとるがな)。遠くから眺めてるリスナーとして私たちがここで認識しておきたいのはつまり、


ダヌくんはまだネットでママの事を詳細に調べた事がない」


という事実である。まぁ、日本のWikipediaみてもサラッと流されてるし、英語版に至っては離婚の話出てない?くらいなので、かなり詳細に調べないとわからない事実ではあるのだが。少なくとも、「ママのファンだからなんでも知りたい!」的なテンションではなさそうだ。


となると、うちらが彼のことを親しみを込めてダヌパと呼んでるのも知らないかもしれないのか。それも時間の問題だろうけど、ひとまず現時点では、ね。ただ、既に『パクチーの唄』『BADモード』『気分じゃないの(Not In The Mood)』といった楽曲には参加してるので、いつ反応が気になってエゴサーチするか、もうしてるかは、わからない。いずれにせよ、将来、彼に検索された時に読まれても構わないトーンで、ダヌパの名前を出してあげておくのが、ファン&リスナーとしてのマナーなのかしらね、と思うのでありましたとさ。

SF="Dressed-Up Album" ?


発売されて全編を聴いて以来、『SCIENCE FICTION』を“ベスト・アルバム”と呼ぶ気がすっかり失せてしまったという話は既にしてきているが、じゃあ代わりに何て呼べばいいかというのは結構頭を悩ませている。


(ここでかなり古い例を挙げるが私の原体験の一つなので少々ご勘弁を)


その昔、1989年(あらもう35年も前ですか)にTM NETWORKが「DRESS」というアルバムを発表しまして。今思えばデビュー5年目オリジナル・アルバム6枚でこれをリリースしてたって結構とんでもない事なんだけど、当時はただひたすらカッコいいアルバムだと何度も聴き返していたのです。


その中身はというと、過去の5枚のアルバムから人気曲を「プロデュースし直して」収録した彼ら(というか小室哲哉)曰く“リプロダクション・アルバム”と呼ぶものだった。単なるリミックスに留まらない、数々のプロデューサーを招聘して楽曲を再構成して貰うという、当時中学生だった私にとっては斬新極まりない発想を詰め込んだ一枚だった。今思えば、この後90年代に「プロデューサー・ブーム」を巻き起こす小室哲哉は、逸早くプロデュースの重要さを見抜いていたともいえる。まぁソロアルバムを自分で歌っちゃう脇の甘さも見せてたけども。


そういう作品を幼い頃に通過している為、『SCIENCE FICTION』もそれに近いコンセプトかなと当初は解釈しようとしたが、根っこの思想がまるで異なる事に気がついて辞めた。「DRESS」も、発想の斬新さと技術の興味深さが漲っているとはいえ、結局は「昔の曲を聴こう」というスタンスなのは変わらず、つまり、変則的とはいえそれはベスト・アルバムの一種であると言って良かった。実際自分は「Gift For Fanks」(1987年に発表された至って普通のTM NETWORK初期ベスト・アルバム。ただ、“Get Wild”がアルバム初収録作品なので必携だった)より先にこの「DRESS」を聴いていた為、彼らの過去の曲を覚えたのはこちらだったので、よりこの作品をベスト・アルバムだと認識する気持ちが強い。


しかし『SCIENCE FICTION』は、前にこの作品のタイトルは「SCIENCE FICTION 2024」の方が良かったんじゃないかと主張した通り、「現在」に主軸がある一枚だ。「過去の偉業を振り返ってみよう」という態度は、少なくとも作り手側には希薄だったと言える(聴き手側は好きに捉えたらいいもんね)。そうね、描写するなら


「様々な段階の“途中まで作ってある曲”を取り上げて、今の感性で完成までもっていってみたアルバム」


という風に、なるかなぁ?


つまりこうだ。普通のオリジナル・アルバムは、総ての曲を、何もない状態から、作詞作曲から始める。そうしてそこから、編曲して歌唱して演奏して、それらを録音してミックスしてマスタリングして、完成だ(大雑把にいえばね)。だが『SCIENCE FICTION』では、この各段階が予め何ステップか終わってる素材を使って新作を作った、という言い方をするべきではないかなと。即ち、


・作詞作曲すら始まってなかったのが新曲。

・作詞作曲まではあり物の素材を使ったのがRe-Recording曲。

・作詞作曲編曲実演録音まではあり物を使ったのが2024 Mix曲

・作詞作曲編曲実演録音ミックスまではあり物を使ったのがリマスター曲。


という具合。今まで散々この日記で繰り返してきた話ではあるけれど、その見方を完全に「現在」からの視点からに座標変換して読み換える事が肝要だ。それによって得られるのは、詰まる所リスナーが、


「2024年の宇多田ヒカルの作詞作曲」

「2024年の宇多田ヒカルの編曲と歌唱」

「2024年の宇多田ヒカルのミックス」

「2024年の宇多田ヒカルのマスタリング」


をそれぞれ「分けて」認識出来るという点。これに尽きると思われる。


普通の新作、オリジナル・ニュー・アルバムだと、このように分解して分析するのは時に難しい。何しろ、作曲も編曲も歌唱も全部その時の最新なので、それらの特徴や特性はまとめていっぺんに提示されるからだ。


しかし『SCIENCE FICTION』では、過去の音源と比較する事で、それぞれの各段階を分けて認識して分析する事が可能となった。これは地味だが物凄く斬新かもしれない。


というのは、宇多田ヒカルの音楽的才能の多彩さを、今までは一括して受け取っていたのが、今やこの作品によって


「作詞作曲家宇多田ヒカル

「編曲家宇多田ヒカル

「歌手宇多田ヒカル

「ミックスアドバイザー宇多田ヒカル」(技術的な事はしないそうなので、助言者ですね)

「マスタリングアドバイザー宇多田ヒカル


といったそれぞれの仕事の特色として浮き彫りにする事が可能になったからだ。


ここに関しては難しく考える事はない。リレコーディング曲を聴いて「昔より爽やかになった!」と思えばそれは「2024年の編曲家宇多田ヒカルと歌手宇多田ヒカルは昔より爽やかになってる」という意味だし、リミックスを聴いて「昔よりもバックコーラスがよく聞こえる!」と思ったならば「2024年のリミックス・アドバイザー(要はプロデューサーだね)宇多田ヒカルは昔よりバックコーラスを重視している」という意味になる。それだけの事だ。


今迄は「音楽家宇多田ヒカルの現在の傾向」としておおまかに捉えていたものがより精細に各役割の特色として認識出来るようになる、それが『SCIENCE FICTION』というアルバムの勘所だとすると、じゃあこのアルバムはベスト・アルバムでなくて何と呼ぼうかとなったときにふと「着せ替えアルバム」という呼称に思い至り。“Dressed-Up Album"ですね。…あ。結局TM NETWORK の「DRESS」に近い呼び方になっちゃったw


これは単に服を着せ替えるだけに留まらず、誰に着せるかから自由自在な…と書く私に思い浮かぶのは、22年前のロング・インタビューの一節。


「そう、だから『ナイスバディだよね』っていうバービーちゃんの人形がそういう基準としてあって、そこにどんだけ格好いい服を自分が作って着せられるかっていうことではなくなってしまったの、もう。『そもそもどんな女の子に服を着せたいの?』っていうところから始まって。それまで誰にも『リカちゃんじゃなきゃダメだよ』って言われてたわけじゃないのに、『あ、勝手に自分でスタート地点を勘違いしてたのかな』って思うぐらい、今まで作業を始めるっていう気持ちだったところが、『それレースの途中じゃねえかよ!』っていう感じで、もう1回スタート地点を発見してしまって」

https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/utadahikaru/gallery/backnumber/interview2002/p10.htm


詳しくはリンク先を前後も含めて読んでうただきたいが、ここでヒカルが言う「スタート地点」を自由自在に取ったのが、『SCIENCE FICTION』なのだろうなと、今回はそう結論づけておきたい、とそういう話なのでありましたとさ。嗚呼、なんて自己満足オンリーな日記なの!