無意識日記々

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Early Warnings in Time

昨日は照實さんのお誕生日で、71歳になられたとのこと。おめでとうございます。

71歳というと昭和生まれな私からみると完全に隠居生活の年齢という認識なのだがこの令和の世の中ではもうそんな感じでもない。特にミュージシャンは元気に活動してる人が多いよねぇ。打首獄門同好会のベースの人とか(例が偏るッ)。「いや何、みんなまだまだポール・マッカートニーより若いじゃないか」とか言っとこうか。いやあれは20世紀の奇跡そのものの人だから現生人類で最も参考にならない人だけどw

照實さんはヒカルのマネージャー兼プロデューサー兼事務所の社長だが、よくそれだけの仕事を兼任できるなと。その中で最も余人に代え難いのがプロデューサー役で、宇多田ヒカルの全アルバムはおろかUtadaのアルバムでもクレジットされているまさにヒカルの片腕的存在だ。親が腕って変な感じだけど、役割としてはそうなのだ。

これが何を意味してるのかというと、我々は照實さんの耳を通していないヒカルのアルバムを聴いたことがないという事なのだ。今までヒカルが送り出してきたサウンドは常に“光with照實”であって、どこまでがヒカルの音でどこからが照實さんの音かを我々は知らない。

で。ここに来て『Time』で「プロデュース:宇多田ヒカル小袋成彬」というクレジットが出てきたんですよね皆さんご存知のように。共同名義。ヒカルはTHE BACK HORNとも共同プロデュースを行っていけれど、自身の新曲でこのクレジットは初である。(『Face My Fears』をどうカウントするかは保留にしておきます)

もしこのままなりくんがアルバム全体でも共同プロデュースを執り行うとすると、今度こそ照實さんがプロデューサー業から解放される事になるかもしれない。

実際、年下の共同プロデューサーが現れたのは喜ばしい事なのだ。今後何十年でもタッグが組める。年齢の心配が要らないからね。やはり、気心の知れたプロデューサーというのは必要なのだから。

だが、若いが故の不安も付き纏う。「小袋成彬」と(二年以上)一言も呟いていないアカウント(私ね)をエゴサしてブロックするとか、えぇっと、「小心者だなー」という感想しか出てこない。宇多田ヒカルのプロデュースなんて凄まじいプレッシャーだと思うのだがそんなメンタルで大丈夫なのだろうか。

音楽的な資質や相性は心配していない。彼のセカンド・アルバム「Piercing」でも二人で作った『Down The Line」は出色の出来だった。『パクチーの唄』や『Time』や『誰にも言わない』は最早言うに及ばず。二人はどちらが主導権を執ってもいい音楽が作れる。なので、あとは彼の精神的成長を待つのみだわね。メンタルタフネスが加わればこのタッグは最強となるだろう。ブロックされてる私も(笑)、もう少し様子を見ていたいと思います。

テーマソングのアートワーク

ヒカルのアルバムのアートワークはデビュー作の『First Love』から最近作の『初恋』まで一貫して顔のドアップで、21年前から後に来たる“ジャケットアイコン化時代”に早々に適応していて偶然とはいえ先見の明だったなと言いたいところ。

一方でシングル盤に関してはアートワークのコンセプトはバラバラである。『FINAL DISTANCE』や『誰かの願いが叶うころ』のようにアルバムに負けず劣らずドアップのものもあれば、『光』や『Beautiful World / Kiss & Cry』のようにヒカルの全身が遠景でちょこっとだけ写ってるものまで様々だ。また、『Addicted To You』では2人に、『Wait & See 〜リスク〜』では4人に、『Keep Tryin'』では何十人に(数えるの諦めた)もヒカルが居て増殖する事も厭わなかった。本当になんでもありなのである。『For You/タイム・リミット』なんて自作絵のゴリラだしね。誰だよあれを自画像だなんて言ったのは。怒るぞ?(すいません)

それだけ多様だと、明らかに手抜きのアートワークも出てくる。『Eternally - Drama Mix -』なんて『Distance』アルバムからの流用である。配信限定のリミックスでヒカルがプロモーションに参加してないのだから当然といえば当然なのだろうが、折角なのだから新しいアートワークを見せて欲しかったというのはあったりした。

近年目立つのが「漫画化」で、『桜流し』『光 (Ray Of Hope Mix)』『Face My Fears』と絵画化した宇多田ヒカルが登場した。私は経験は無いのだけれど(当たり前だ)、自分が漫画化されたら嬉しいだろうなぁと素直に思う。

今挙げた三作はそれぞれ「エヴァンゲリオン新劇場版: Q」「キングダムハーツHD2.8 ファイナル チャプター プロローグ」「キングダムハーツ3」のテーマソングだが、この流れでいけば「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のテーマソングのアートワークもまたヒカルの漫画化になるのではという期待が寄せられよう。封切当日まで情報秘匿がここまでの常道だが、それまでのヒカルのシングル盤のアートワークの傾向から考えると次は「増える」のではなかろうか。綾波レイのように、『Keep Tryin'』のように、今度のテーマソングのアートワークでは漫画化されたヒカルが増殖するのではと予想しておきたい。しかし、配信限定だと裏ジャケットとかブックレットの写真の楽しみがないのがねぇ。『Wait & See 〜リスク〜』なんてそれだけを見たさにCD引っ張り出してくるくらいなのですが。次も何とかマテリアルで出してくれませんかね?

熊之本倶楽部

インスタライブで背後に木彫りの熊が置いてあった(のだよねあれよく見えなかったんだよね)ことからもわかるとおり、相変わらずくま愛の強いヒカルさん。Instagramではアカウント名がkuma_powerだもんね。くまには、くまちゃんにさいろんな局面で助けられている。

シンガー・ソングライターとしてマスコット・キャラクターが居るというのは大変心強い。グッズを作る時に“Hikki”に拘らなくてよいからだ。年齢とか髪型とか体調とかなんやかんや人間は兎角変化する生き物だが(生き物は変化するわな)、マスコットキャラクターは何も変化しない。させてもいいけど、ずっとそのままでもいられる。

なので、コラボカフェを実施したときもくまちゃんがモデルになってくれて、ヒカルさんをキャラ化せずに済んだ。まぁそこらへんはチューイチもそうだったんだけど、くまちゃんはもっと徹底してるのね。

そういえばインスタで言ってた『Kuma's Book Club』って、本気で始動させるつもりとかないんだろうか。アルバムとなると難しいかもしれないが、単曲を書籍として発売して流通に載せる企画とかと絡めたら面白いかもしれないな。『ぼくはくま』には絵本がついていたが、今度は絵本にヒカルの新曲のCDが付属する、というような。どちらかといえば企画モノで、それこそ名義を『Kuma's Book Club』にしてしまってもいいような。ヒカル自身が絵本を描くのはハードかもしれないので、他のクリエイターとのコラボレーションになるかな。Fluximationの書籍版みたいな? なんか時代に逆行する感じがしてこそばゆい。

インスタライブでも絵本の中の歌に節をつけて歌っていた。『宇多田ヒカルの言葉』という歌詞集も出した。宇多田ヒカルと本の相性はとてもいい。純粋な文章も勿論望ましいが、ここぞという時にくまちゃんにヘルプしてもらって絵なりARなり何なりになってもらうような、そんな活動があっても面白いんじゃないかなーとふと考えたのでありました。今日はそれなりに晴れてはいたけど、梅雨明けはまだかいねぇ…。

ねっこは ひととひとの こと

昔から、NHKのニュースでプロスポーツを取り上げるのが解せない。別に嫌じゃないんだけどね。あれだけ営利企業への加担を忌避する番組作りをしている放送局がなぜ特別枠を作って会社名を連呼するのをよしとしているのか。幾つもその理由についての記述を読んできたが、どれも言い訳がましい。日本での日本語の放送なので日本代表の試合や国技として認知されている大相撲の情報を発信するのであればまだわかるのだが。

認知度とか関心度でいうなら、同じ位枠をとってライブコンサートレポートもしてくれたらいいのに。「昨日東京ドームで巨人と阪神が対戦しました」も「昨日東京ドームで嵐が全20曲を熱唱しました」も関心度という点では似たようなものだろう。

その昔山口百恵NHKで「プレイバックPart2」を歌う際に「真紅のポルシェ」の部分を「真紅のクルマ」に改変させられて歌わされた話は有名だ。ポルシェが商品名だからだ。幾らか経った後ポルシェと歌えるようになったらしいが、毎日ヤクルトだロッテだと連呼してる放送局に言われたかないというのが人情ってもんだろう。

その「プレイバックPart2」を20年前の『Bohemian Summer 2000』ツアーでカバーしたヒカルさんも昔『ぼくはくま』で「前世という歌詞は如何なものか」とNHK側から苦言を呈された事がある。そんな事いうなら「スポーツチームを軍呼ばわりするのは如何なものか」くらい言って欲しいものだが、その時は字幕をカタカナで『ゼンセ』とすることで決着がついた。

では、もし今後ヒカルがNHKに出る時に商品名を連呼する曲を歌おうとなった時にどうなるのか。何しろヒカルさんは『Kiss & Cry』で『今日は日清CUP NOODLE CUP NOODLE CUP NOODLE♪』と歌った実績がある。未来にまたそういう曲をリリースしないとも限らない。作品の芸術性を尊重するなら、政見放送がかなり何でもありなのと同じように、自由に表現できるよう取計らわないといけないと思うのですけどね。

ファンとしては、そんなイザコザでヒカルのパフォーマンスが観れなくなるのは嬉しくないだろう。自分個人としては違った歌詞で歌われたりしたらそれはそれで別バージョンが手に入ったと喜ぶかもしれないが、多分、あれなんだよね、NHKの中の人の態度が悪いんだろうなぁというのが、きっといちばんのネックであって。そこが引っ掛からなければヒカルも穏当に対処してくれるんだと思うのよ。ルールは人間が作るものだし、結局は人と人の関わり合いなのだろうよなと、相変わらずな放送局の姿勢に触れる度に思うのでありましたとさ。

心理とシーンの持ちつ持たれつ

「曲毎に」となると、もしその曲が気に入らなかった場合暫しそのまま離れて次の曲まで待ちだし、気に入ったとしても一頻り聴いた後はやはり次の曲が待ち遠しくなるだろう。勿論、コアなファンは毎日バックカタログを聴いて過ごせているのでそれはそれで全く問題ないのだが、そこまでいかないリスナーはどうするかという事なのだ。

この曲毎アティテュードはヒカルのデビュー時なら素直に機能していた。宇多田ヒカルに拘らずとも他のアーティスト達が常に毎週新曲をリリースしていたからだ。よってリスナーも「Pop Musicに耳を傾ける」というライフスタイルを崩さずに生活を続けられていた。今でも同期のみんな(浜崎あゆみとかaikoとか)は比較的元気だが、だからといって20年前のような活況がある訳では無い。寧ろもうそれぞれがクラスタを作ってそこでのサイクルを完成させている。ファンクラブをはじめとした“囲い込み”クラスタの集合体が現在の市場、シーンであって、過激な言い方をすれば、宗教を信じたり政党を支持したりするノリでアーティストを応援するのがメインストリームになっているような。

そういったシーンにおいても宇多田ヒカルというネームバリューは凄まじく、新譜を出せばCDだけで何十万枚というスケールになるのだが、余りにも単発だ。暫くはこのまま行けるだろうが、閉じたクラスタの寄せ集めとなった市場ではヒカルの歌はなかなか支持されなくなっていくだろう。ヒカルのクラスタってのがあやふやだからね。ファンクラブがないから。まぁ、昔からのリスナーはそうそう離れないだろうから漸減というムードだろうけど。

昔述べたように、本来ならヒカルのアウトプットがない時期はレーベルメイトが入れ替わりで前線に立ってくれればいいのだが、こちらの方は依然なかなかうまく回ってくれていない。

そんなだから、ヒカルからのアウトプットのない時期のファンの関心は本当にバラけまくっている。音楽を聴いていればまだいい方で(聴いてないからよくない訳では無いですよ、単なる言い方ってヤツです)、ゲームやスポーツやゴシップやあれやこれやとまぁ多彩だなぁと。なので、「宇多田ヒカルと○○が好き」という人が本当に多い。その○○の幅広さがなんとも面白く、楽しい。

そんな中でいちばん目立つのが「○○=椎名林檎」で、なんだろう、若い人たちからしたらこの二人は同じ/近いポジションなのだろうか。ヒカルに比べたら林檎姐さんはアウトプットが遥かにコンスタントで、ファンクラブもかなり機能しているようだ。ヒカルが鳴りを潜めてる時は彼女の活動を追ってる人が多かろう。

その林檎姐さんがインタビューでも語っていた通り、シーンの構造としては宇多田ヒカルが真ん中にどーんと居て林檎姐さんがその脇を固める感じであって、その“真ん中にどーん”が居ない間ずっと心細さを抱えて留守を守っていたのが椎名林檎。故に心理的には林檎姐さんがヒカルを頼っている。言い方は悪いが、ヒカルからしたら椎名林檎が活動していようがいまいが創作面での影響は軽微だろう。個人的には寂しいかもしれないけれど。ヒカルが主で林檎姐さんが従なのだ。

ところが、リスナー目線でいえば、ヒカルさんは林檎姐さんに頼りっぱなしなのだよこれが。ヒカルのアウトプットが途絶えている時期をずっと繋いでくれている筆頭が椎名林檎なのだから。この心理とシーンの持ちつ持たれつ具合がこの二人の組み合わせのいちばんの魅力なのだろうから、つまり、次のヒカルのアルバムでもまた是非コラボしてくれませんかねという結論になるのです。他のコラボレーションとは違い、もっとコンスタントでいいと思うのですのよ、えぇ。それを見せつける事で「ファンクラブを持たない宇多田ヒカル」の存在がシーンの中で居場所を見つけていってくれる気がするのです。ま、そんな計算的目論見度外視でも、二人が居並ぶ姿はずっと眺めていたいのですけどね。