無意識日記々

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SC2は"バカボンのパパ"なのだ。

mtjさんがBlogでSC2の曲について語ってくれている。"目次"から辿ってくれれば読める。まだ連載の途中なのでその内容に触れる事はせず、私は私で自分なりの解釈を今一度纏めておきたい。

嵐の女神は"帰る歌"である。ぼくはくまの絵本でもいいし、テイク5でもいいのだが"家(ウチ)に帰る"モチーフは光にとって何か特別な意味があるようだ。SC1の表紙詩を、見事に継承している。

Show Me Loveは、情熱の歌。『私の内(うち)なるPassage』とは、"内なるPassion(情熱)"という定型句に個性を込めたものだろう。過ぎる、とか受ける、とかそういう言葉を使って自らの人生に積極的に関わろうとする態度を表明するのは、光ならではである。

Goodbye Happinessは、"原罪を愛する歌"である。創世記を読み換えるアプローチはYMMPVでも見せていたが、ここでは人間がエデンから追放される事を全肯定してしまう思い切りがある。無理やりこじつけるならエデンという"あったかい家"から外に飛び出す歌である。罪を赦せる人は居ても、ここまで罪を愛せる人はいまい。甘いお菓子はやっぱり知恵の実たる林檎の変種だろう、という解釈に変わりはないが、ただまだ何か引っ掛かる。最後のKissにタバコのFlavorを割り当てたピーマンの天ぷら人生な彼女にとっても、最初のKissは甘かったのだろうか。

そして、愛のアンセム。GBHが原罪を背負った人間を愛する人間賛歌だったとすれば、この曲は―タイトル通り、愛のアンセムである。愛に生き愛に死ぬ、そういう生き方を肯定する歌である。基本的にオリジナルに忠実な訳詞がベースとなっているが、『名もない魂が歌い始める』という一節は嵐の女神同様SC1の表紙詩を踏襲しているし、そして『あなたにかえりたい』という終局からしてこれは"あなたにかえる歌"ではあるのだが、古典であるが故に愛の普遍性より個々の時代の匂いが目をくらませてくれている気がする。難しい。

最後のCan't Wait 'Til Christmasは、"あるべき場所に帰った歌"だろうか。宇多田ヒカルは、これくらい演じた方がPopでいい。問題は、"あるべき"という"べき論"に問題を帰属させていいものかどうか、である。大切な人を大切にする、それだけで"いいんです"。いい、のだ。この圧倒的な肯定感。これでいいのだ。いい曲である。